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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第二章
14/52

5.追憶1 ―入道雲―

今回から数回にわたっては過去のエピソードとなります。

ヨイクとユアンの出会いから、ギーヴのエディンバラ脱出まで。

 ユアン・リプトンがヨイク・アールトに出会ったのは三年前、ユアンが二十三歳、ヨイクが十五歳の時のことだ。


 ユアンはスコットランドの商業都市グラスゴー市の貧しい雑貨屋に生まれ、八歳で初めて給料を手にしてから様々な仕事を渡り歩いた。やがて自分の才能を試そうと十五歳でアメリカへ、十九歳で自分の貿易会社を設立した。扱っていたのは紅茶や砂糖、煙草など儲けの大きい嗜好品が中心で、ユアンは一代で大きな富を得た。


 一方、その頃のヨイクはヒベルニアに関する民間伝承を集めるために旅を始めたばかりだった。父親の反対を押し切って村を出た手前、路銀は自分のトナカイを売り払って得た分しかなかった。それがとうとう底をつき始めていた。

 

 運命の日、ユアンは大切な商談に向かうべく馬車に乗り込んだ。機能的ながら美しい自家用の馬車だ。真夏の汗ばむ陽気ではあったが老舗の仕立て屋に作らせた新品のスリーピースを着込み、母親譲りの赤毛を整髪料で後方にきっちりと撫でつける。商談に臨む時は見た目も肝心だ。


 屋敷を出て十数分後、ちょうど劇場の目の前にさしかかった時だった。馬車が何かにぶつかって急停止した。座席で新聞に目を通していたユアンは驚いて扉を開けた。御者は興奮する馬を落ち着かせようと手綱を引きながら青ざめた顔でユアンを顧みる。


「だ、旦那様、すみません」


 ユアンの馬車は並走する別の馬車にぶつかってしまったようだ。相手が辻馬車なら窓から顔を出して謝れば済むのだが、馬車を見る限り相手は貴族だ。ユアンが馬車を飛び降り、貴族の馬車に駆け寄ると、劇場の前の石畳に尻もちをついた若い男が従者に助け起こされながら何か喚き散らしていた。ユアンは彼を知っていた。フォション侯爵だ。麻薬や武器の密貿易で荒稼ぎしていると商人仲間から聞いたことがある。


「おまえ、ユアン・リプトンだな!商人の分際で侯爵の馬車にぶつかるとは何事だ!あまつさえ、このボクに怪我を負わせるとは無礼千万!」


 ユアンは地面に膝を折り、面倒なことになったと内心で舌打ちした。ユアンの馬車は芝居見物にやってきた貴族の馬車にぶつかり、ちょうど馬車を降りようとしていたフォション侯爵閣下を転倒させてしまったのだ。知人や下々の見ている前で恥をかかされた侯爵は顔を真っ赤にして怒り狂っている。彼の転び方がよっぽど滑稽だったのか、傍らに立つ若い娘は幻滅した様子で侯爵を見下ろし、見物人は何か囁き合いながらくすくす笑っている。


「誠に申し訳ございません。下男の無礼は主人である私が責任を負います。どうか広いお心でお許しください」


 ユアンと御者は並んで深々と頭を下げた。汗水たらして働く商人が、先祖から譲り受けた特権と財産でのうのうと生きている貴族に対して膝を折るなど悔しくてたまらなかったが、こうするしかない。


「おまえのせいで皆に笑われたじゃないか」


 フォション侯爵がつぶやいたかと思うと、大きな破裂音がして御者の身体が傾いた。地面にどさりと倒れた彼の額から大量の血が流れ出し、あっという間に血だまりをつくる。あちこちから女性の悲鳴が聞こえ、ユアンはフォション侯爵を見上げた。侯爵は白煙を上げる短銃を今度はユアンに向ける。二連銃だ。


「おまえのせいで皆に笑われたじゃないか。おまえのせいで婚約者の前で恥をかいたじゃないか。おまえのせいで、おまえのせいで」


 血走った目でフォション侯爵が引き金の指に力を込めた時、ユアンは死を覚悟した。短い人生だったが、やりたいことはやったと思う。心残りは今日の商談くらいだ。詳細は知らされていないが、きっとユアンが喜ぶ話だと言って知己がセッティングしてくれた商談だった。


「まったく、イカレてるな」


 何もかも諦めて思わずつぶやくと、それまで金縛りにあったように動かなかった身体が自由になった。すると自分の頬や服に御者の血が付いていることに気が付き、ユアンの胸に怒りが湧き上がってきた。彼には妻子がいた。年老いた両親がいた。彼には長い人生があり、たくさんの喜びや悲しみを手にするはずだったのに、それが身勝手な一人の男の手で、無情にも断ち切られたのだ。


「な、なんだと?!」


 ユアンがすっくと立ち上がると、背の低いフォション侯爵はたじろいだ。ユアンは顎を突き出し、侯爵の顔をじっと見下ろし、拳を固く握った。向けられた銃口が恐ろしくなかったといえば嘘になる。それでも我慢できなかった。こんなに怒ったのは生まれて初めてかもしれなかった。身体が火の玉のようだ。そもそも、麻薬や武器の売買でぼろ儲けしているこの男が、ユアンは大嫌いだったのだ。


「おまえは、イカレてる」


 大きく振りかぶり、全体重をかけて突き出したユアンの拳がフォション侯爵の左頬を直撃した。侯爵は数歩よろけて地面に倒れこむ。彼は頬を押さえ、目を丸くしてユアンを見上げた。貴族である自分が庶民に殴られるなんて想像したこともなかったのだろう。もしかしたら今までの人生で殴られたことが一度もなかったのかもしれない。


「お、お、お、おまえ、殴ったな!商人のくせに、このボクを!ど、どうなるか分かってるんだろうな!」

「分ってるさ。おれはおまえみたいな阿呆じゃない」


 最期にやってやったぞという清々しい思いと若干の後悔の念が胸をよぎり、ユアンは今度こそ死を覚悟した。フォション侯爵は立ち上がり、常軌を逸した怒りの形相で真っ黒の銃口をユアンの眉間に向ける。次の瞬間、劇場前広場に銃声がこだました。うめき声を上げたのは侯爵だった。彼は叫びながら右手を押さえ、短銃を下ろした。ユアンは周囲を見回す。誰かが侯爵を狙撃したのだ。それが誰なのかはすぐに分かった。


「まったく、イカレてるわね」


 凛とした張りのある声がして、その場にいた誰もが彼女を振り返った。どこからともなく現れ、呆然とするユアンに駆け寄ったのは藍色のワンピースの少女だった。珍しい身なりと背中に大きな荷物を背負っているところを見る限り、異邦からの旅人のようだ。彼女は短銃を腰のベルトに挟み、波打つ金色の髪を揺らして、ユアンの腕を強い力で引っ張った。


「殺されてやることなんてないわ」


 少女はユアンの手を引き、人の群れを縫ってその場を逃げ出した。背後から侯爵の怒鳴り声が聞こえてきたが、二人を止める者はいなかった。ユアンは引きずられるがままに走りながら、自分の手が震えていることに気がつく。ついさっき、自分は本当に殺されるところだったのだ。あと、ほんの一瞬で。心臓がどくんどくんと音を立てて鳴り響いている。生まれてこの方、こんなにも生きているということを実感したことはなかった。


 しばらく走ると、少女は何も言わずに路地裏の建物と建物の間に飛び込んだ。当然、腕をつかまれたユアンも引きずりこまれる。大人がすれ違えない程の狭い通路を進み、角をふたつ曲がったところで彼女は足を止めた。二人とも汗まみれだ。


「あのイカレ侯爵の馬車は往来の激しい場所で急停車したのよ。あなたの馬車はそれを避けようとしたけどだめだった。あなたの御者は悪くないわ」


 薄汚れた地面にしゃがみ込み、息を整えながら少女は言った。ユアンは上着とベストを脱ぎつつ建物の壁に寄りかかり、大きく肩で息をする。だらしなく地面に座り真上を見上げると、建物と建物の間から、青い空と入道雲が見えた。


「当然だ」


 二人はそれきり口を利かず、息をひそめて騒ぎが収まるのをただ待ち続けた。やがて日が傾き始めた頃、ユアンは懐中時計を取り出して頭を抱えた。商談の約束をすっぽかしたことに気がついたのだ。そして、自分を助けてくれた少女にまだお礼のひとつも言っていないことにも。少女はユアンの隣に座り、膝の上に広げた紙に何か文章を書いていた。


「なぜ、おれを助けてくれたんだ?」


 ユアンの声は掠れていた。自覚している以上におれは参っているのかもしれない。彼が心の中で自嘲したと同時に少女は顔を上げた。青い両目がきらりと光る。それは若きビジネスマンをはっとさせるほど意思の強い瞳だった。


「お金に困ってるからよ、リプトンさん」

「……何だって?」


 ふふふ、と少女は破顔した。


「あなたの馬車があのイカレ侯爵の馬車にぶつかった時、劇場前のカフェにいたの。他の客があなたの顔を見るなり『リプトンさんなら上手いこと金で解決するだろう』って言うもんだから、あなたを助ければ礼金がたんまり貰えるんじゃないかと思って」


 少女は自分の背中の後ろから大きなボストンバッグを取り出した。ユアンは額を抑えた。それは今日の商談のために用意した金だった。馬車に積んでおいたものを彼女が持ってきたのだろう。


「言っておくけどな、それひとつで貴族の年収に相当するんだぞ」

「見れば分かるわよ。だから騒ぎの隙にそれを馬車の荷台からいただいて、かといって泥棒するのも気が進まなかったら、あなたを助けたのよ」


 金が絡むとユアンの頭は冷静に思考を始める。確かに少女はユアンの命の恩人だ。自分の資産に見合った礼金をはずむべきだろう。それに、商談にはもう行けない。フォション侯爵は自分の頬を拳で殴った商人のことを市長に報告するだろう。彼は影響力のある人物だから、この町で商売することも暮らしていくことも難しくなる。だったら、もう一度どこか別の町で、何もかも一からやり直しだ。


「分かった、礼金ははずむ。だが、その金はあんたにやれない」


 ユアンは商談のために新調したズボンの汚れを払いながら立ち上がる。髪の乱れを直し、ベストに腕を通す。


「どういうこと?」


 少女は腰を浮かし、静かに首を傾けた。彼女が憤慨するのではないかと思っていたユアンは、この子は案外賢いのかもしれないと目を見張る。


「事情はうちに来れば分かる。おれはここに隠れているから、そこの通りで辻馬車を捕まえて来てくれ」


 少女はボストンバッグを置いて表通りへ出ていくと、すぐに辻馬車で戻ってきた。ユアンは大金を抱えてみすぼらしい辻馬車に乗り込み、平静を装って自宅の住所を御者に告げた。御者は何かに気がついたかのように片眉を上げたが、何も言わずに馬の尻へ鞭を振るった。



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