3.ヒベルニアの姫
ヨイクは正午頃に目を覚ました。ぐずぐずと鼻をすする音が聞こえたのだ。身体を横たえたまま耳を済ませていると、誰かが声を殺して泣いているようだった。ヨイクは起き上がった。
「ヒリール?」
隣で寝ているのはヒベルニアのお姫様だ。細い体を粗末な毛布で覆っている。
「どうしたの?」
ヨイクは毛布を身体に巻きつけて立ち上がり、暖炉に薪をくべて火力を強めた。
「平気。大丈夫。夢を見ただけ」
少女は毛布を被ったまま首を振った。声が震えている。ヨイクは沈黙で応じ、半分ほど水の入った薬缶を暖炉の火にかけた。彼女は窓辺に立ち、テーブルの上のポットへ茶葉を入れる。カップとポットを火のそばへ置いて温めておくことはユアンから教わった。
「ねえ、ヒリールは私達がヒベルニアに行くことについてどう思うの?」
ヒリールが何かを悩んでいるとしたら、故郷である秘密の島へ異邦人であるヨイクたちを連れ帰ることに違いない。ヨイクは沸いたお湯をポットに注ぎつつヒリールの様子をうかがった。
「ヒベルニアはクラシック教徒の秘密の島だもの。教会関係者はもちろん、誰にも知られちゃまずいわよね。もしかしたら、どうして帰って来たんだ!ってヒベルニア王マキシムの怒りを買うことになるのかも」
ヒリールは毛布の中でびくりとした。
「マキシムおじいさまは厳しい方なの?」
「……うん。マキシムおじいさま、夢の中ですごく怒ってた。わたしのせいでヒベルニアの秘密が暴かれて、わたしのせいでクラシックが教会に滅ぼされるって」
すすり泣くヒリールにヨイクは胸を張って自身満々に答えた。
「よし、分かった。もしもヒベルニア王マキシムがあなたを怒ったら、私がちゃんと言ってやるわ!ヒベルニアが見つかるのは時間の問題だってことをね!」
ヒリールは毛布をはねのけて起き上がり、ヨイクを睨んだ。頬や長い茶色の髪が涙で濡れている。
「でも!それだって、わたしのせいでしょう!わたしがスコットランドに流れ着いて、教会に保護されたからでしょう!わたしのせいでヒベルニアの秘密が暴かれて、わたしのせいでクラシックが滅ぼされるんだ!」
とうとう声を上げて泣き出したヒリールにヨイクは慌てて駆け寄った。
「ほらほら、まだユアンが寝てるから、ね、ヒリール。それに大丈夫よ、ヒベルニアへ行けるのは選ばれた人だけなんですって。教会が押し寄せて来るようなことにはならないわ」
ヨイクはヒリールの頭を抱きかかえ、背中をさすってやる。小さく細い身体は頼りなく、彼女の境遇にヨイクは同情した。とはいえ、ヒリールがいようがいまいが、ヨイクがヒベルニアを目指すことはもう決まっている。ヒリールがどうしても帰りたくないと望むなら彼女を置いていくこともできるが、そういうわけにもいくまい。
「わたし、マキシムおじいさまに嫌われてるの。わたしの両親も、わたしのおばあさまも、マキシムおじいさまに嫌われてる。わたしたちはマキシムおじいさまとは別の離宮に住んでいて、おじいさまには年に数回しかお会いできない。おじいさまのことを昔から知っている人たちは口をそろえて言うわ。『マキシムはアンジェラを忘れられないんだ』って。ギーヴおじいさまとシスター・アンジェラを連れて行ったら、マキシムおじいさまは喜ぶでしょう。その横で、わたしはおじいさまから叱責されるんだわ」
堰を切ったように胸の内を語るヒリールをヨイクはなだめた。
「考え過ぎよ、ヒリール」
「考え過ぎじゃないもん」
「だとしても、疲れている時に考えることはロクなことじゃないわ。悪い方へ悪い方へ、下へ下へ、考えが落ちて行くの」
もう少し出発を延ばしてもいいだろう。ヨイクはヒリールを横たわらせ、傍らに腰を下して少女の髪を撫でた。
「ひとつ、北欧民話を聞かせてあげましょうか。霧山の王というお話よ。目をつぶって」
ヨイクが促すとヒリールは目を閉じた。
「むかしむかし、ある村に一人の娘がおりました。ある日娘は仲間と森へキノコ採りに出かけましたが、仲間とはぐれ道に迷ってしまいました。夜が訪れ心細くなった娘は、遠くの山頂に光を見つけ、それを目指して歩いて行きました。
光は焚火の炎で、そのそばには一人の老人が座っていました。娘はなぜだか恐ろしい気持ちになって、岩の陰に隠れて老人の姿をよくよく観察しました。すると、老人は一つの目の妖怪だったのです」
ヒリールは目をつぶったままわずかに息を飲んだ。
「娘は逃げようとしました。しかし、そっと立ち去ろうとする娘に老人は言いました。
『逃げるんじゃない。逃げればこのナイフでおまえの目玉をくりぬいてやる。大人しくここへ来て、焚火にあたれ』
娘は恐る恐る老人の言う通りにしました。娘が黙って座っていると、老人は杖を取り出して地面を叩きました。すると、叩いた地面から一人の女が現れ、母親のように娘を抱き締めました。老人は再び地面を叩きました。今度は地面から一人の女の子が現れ、自分は老人の娘だと名乗りました」
ヨイクはヒリールがまだ起きていることを確認して話を進めた。
「村娘は老人の娘と仲良く遊び、夜は母親のような女に抱かれてぐっすりと眠りました。村娘は時を忘れて数日を過ごしましたが、やがて家が恋しくなって、村に帰る道を女に訊ねました。女は村娘の帰宅を残念がりましたが、帰り道を教えてやりました。そして女は銀のブローチを村娘に渡し、こう言います。
『またここへ来たくなったら、このブローチに息を吹きかけなさい。そのかわり、ここで見たこと聞いたことについて誰にもしゃべってはいけないよ』
一つ目の老人と女と老人の娘に別れを告げ、村娘は自分の村に帰ってゆきました。すると、たった数日村を離れていただけなのに、村の様子がすっかり変わっていて、すれ違う村人は見知らぬ人を見る目で娘を見ました。自分の家に入ると両親までもが娘にこう言いました。
『人の家に黙って入ってくるなんて、あんたは一体誰なんだい?』
娘も訊ねます。
『お母さん、お父さん、どうしてそんなに年を取っているの?』
そこで両者は気がつき、母親が叫びました。
『なんということだ、あんたは七年前に森でいなくなったあの子だね!』
……あら」
ヒリールはすやすやと眠っていた。ヨイクは彼女を起こさないようにそっと腰を上げた。
「眠ったか?」
小屋の入口の脇に横になっていたユアンが身を起こした。
「ごめん、起こしちゃった?」
ヨイクは小声で謝ると、暖炉で蒸気を上げている薬缶を下して紅茶を淹れた。
「いや。霧山の王か」
「まだ続きがあるんだけど、眠っちゃったわ。あんたも紅茶飲む?」
「ああ、頼む」
ユアンは眠っているヒリールの顔をそっと覗き、それから暖炉のそばの椅子に腰を下した。
「かなり取り乱していたな」
「あの年頃の女の子はこういうものよ。あんたは十四歳の時、何してたわけ?」
ヨイクはカップに紅茶をそそぎ、ユアンに差し出した。
「何かな。アメリカに行ったのが十五歳の時だったから、故郷のグラスゴーで草鞋を二足も三足も履いていたはずだ」
二十六歳のユアンにとって、それは十年以上も前のおぼろげな記憶だ。
「はあ、根っからの商人なわけね」
「まあな。『稼いで貯めろ』が親父の口癖だった」
ヨイクはユアンの向かいに腰掛け、両手で紅茶のカップを包んで冷えた掌にその熱を受け止める。
「人生は何があるか分からないから蓄えは大切だと。そう言った次の日に親父は姿を消した。六歳のおれとお袋と幼い弟妹を放り出してな。どこへ行ったのやら、未だに連絡の一つもないから生死さえ不明だ」
ユアンは紅茶を一口すすって苦笑した。紅茶にはブランデーを垂らしてある。身体が温まるはずだ。
「おれは思ったよ。ああ親父、本当に人生は何があるか分からないってな。だけど、おれたちの誰も親父を憎まなかったから不思議だ。もしかしたらお袋は腹の中で何か思っていたのかもしれないが、そのことで腐ったり、おれたちに当たり散らすことはなかった。いつもと同じように店を開けて、おれたちにパンを食わせて、涙の一つも見せなかったな」
ユアンはスコットランドの商業都市グラスゴー市の貧しい雑貨屋に生まれたという。一つ年下の弟と四つ下の妹がいるが、もう何年も会っていないらしい。
「苦労したのね。じゃあ、あんたが商人になったのは家族を養うためだったんだ」
「そうでもない。それなら実家の雑貨屋を盛りたてて稼げばいいだけだ。だがおれは自分の力を試したくて、八歳の時に外へ働きに出たんだ。雑貨屋の仕事は読み書きと計算さえできれば誰にでもできる退屈な仕事だったから」
様々な仕事を渡り歩いた後、彼は十五歳でアメリカへ向かい、十九歳で自分の貿易会社を設立した。そして二十三歳の時にヨイクと出会い、ヨイクのスポンサー兼書籍商となった。ヨイクは彼の人生の波乱万丈ぶりに感心するが当の本人は何とも思っていない様子だから不思議だ。
「こんな話、退屈だろ?もうひと眠りしたらどうだ?」
今さら照れたようにユアンが言ったのでヨイクは思わず笑ってしまった。
三人は遅い昼食を済ませるとすぐに小屋を出て、真っ白な深い森の中を歩き続けた。
「この厳しい環境にイングランドやヴァイキングの脅威が加わって、スコットランド人を防衛的にさせたって言われてるのよ、知ってた?」
そう言ってヨイクはコンパスを取り出した。目指している方角に間違いはない。そろそろ街道に出てもいい頃なのだがそれらしいものは見えない。
「あんたが防衛的かどうかは知らないけどね」
青い目をくるりと動かし、ヨイクはユアンの背中に笑って見せた。
「おれも自分が防衛的かどうかは知らないが、まあ氏族同士の内紛は絶えないようだな」
ユアンはそう言って、後ろを歩くヨイクを顧みる。三人の先頭を歩くユアンは銃を背負い注意深く辺りの様子をうかがいながら歩みを進める。熊はすでに冬眠中だが、狼や大鹿がときどき現れるので、注意を怠れないのだ。最後尾のヒリールは疲れた顔で眠そうに歩いていた。
「ねえ、変だと思わないの?『防衛的』なスコットランド人がお互いに争うなんて」
ヨイクの指摘にユアンは苦笑した。彼は生粋のスコットランド人だが、商業都市で生まれ育った彼には、地方でおこる氏族同士の争いごとは遠い話だった。ヨイクは顔をにやつかせる。
「攻撃的な奴もばっちりいるってことよね?」
「そりゃあな。だが名目上は侵された自分の権利を守るために立ち上がるのさ。誇り高いスコッツの戦士はね」
「あら、じゃあ、あれも戦士かしら。誇り高いスコッツの」
ヨイクが言ったとき、三人の行く手を阻む者が現れた。ナイフを持った五人組だ。いかにもごろつきという風体の中年男たちである。ヒリールが小さく息を飲んだ。
「へっへっへ、お嬢ちゃんたち、綺麗な顔に傷つけられたくなけりゃ大人しく……」
男が言い終わる前にヨイクが男の股間を蹴り上げ、ユアンが銃床を打ちつけて別の二人を失神させた。一瞬の出来事に虚を突かれた残る二人の男たちは、雪の上に倒れた三人の仲間を見下ろしていきり立った。仲間がやられると闘争心に火がつく、実にスコッツらしい行動とも言える。
二人の男はナイフを構え、ヒリールに狙いを定めた。銃を持った長身のユアンや素早く短剣を抜いたヨイクを避け、武器を持たない少女を標的にしたのは見事だった。咄嗟にヒリールの前に飛び出したヨイクが二人の男から突き出されるナイフを受ける形となり、彼女はひょいひょいと身軽にそれを受け流す。
「おのれ小娘!」
苛立たしげに歯噛みする男たちをせせら笑い、ヨイクは自分の短剣を一閃させた。
「ぐわっ!」
男の一人が腕を抑えて雪の上に膝をつく。もう一人がそれに気を取られている隙にヨイクは鞄から縄を取り出してそれを男に投げつけた。縄は男の両足に絡み、それを思い切り引くと男は派手に転倒した。転がった男の腕をブーツの底で力いっぱい踏みつけ、ヨイクは男の手からナイフを取り上げた。
「お見事!」
ヒリールをかばいつつ感心するユアンにヨイクは胸を張って見せた。
「こんなもんよ!」
「街の失業者かな?山賊ではなさそうだ。人里が近いのかもしれない」
転がった男たちを手早く縛り上げ、ユアンは腕組みした。その後ろでヒリールが小刻みに震えている。民話を集める長い旅をしてきたヨイクたちにとって賊の襲撃など大したことではないが、ヒベルニアの城で大切に育てられてきたヒリールにとってこれは恐ろしい出来事だったのだ。
「ヒリール、大丈夫?びっくりしたわよね?」
少女に駆け寄り、ヨイクはヒリールの頭をそっと撫でた。思い出してみれば、ヨイクも初めて旅に出た頃、よく宿屋や街道でガラの悪い男に絡まれたものだ。誰に助けを求めるでもなく、己の力で徹底的に撃退していたが、あとから震えが止まらないことがあった。
「大丈夫、怖くないわよ。どんな奴が来たって、私とユアンがぶちのめしてやるからね」
ぎゅっとヒリールを抱きしめ、ヨイクは自分の胸に誓った。何があってもこのお姫様を護るのは自分だと。だが、ユアンは案外冷たかった。
「ヒリール、酷だと思うが慣れてくれ。当分は男ひとりに女ふたりの旅だ、おれたちは道を歩いているだけでああいう連中に絡まれる」
確かに一理あるとヨイクは頷いた。
「美女と美少女が並んで歩いていれば仕方がないわ。シュクメイってやつよヒリール」
「美女がどこにいるかは知らないが、そういうわけだ。君はおれから離れないように、ヒリール」
「……はい」
「こら、ユアン!いま何て言った!」
ユアンのキザなセリフに瞳を輝かせ頬を染めるヒリールの隣でヨイクは拳を振り上げたが、足元で伸びている男のポケットから一ポンド紙幣がのぞいているのを見て手を止めた。ユアンも眉をひそめる。こんなごろつきが持つ金としては不自然だ。
「一ポンドといえばうちの印刷工の一週間分の給料だ。……おい、誰の差し金だ?」
意識のある者の襟首をつかみ、ユアンはぐらぐらと揺さぶった。まともな言葉をつむいだのは五人の中で一番の大男だった。
「し、神父だ。見かけねえ顔の神父だよ。お、おまえらに荷物を奪われたから、取り戻して欲しいって言われたんだ。荷物さえ渡せば女は好きにしていいと」
「なんっつー野郎よ。聖職者の風下にもおけないわね」
腰のベルトに短剣を戻し、ヨイクは地図を広げた。
「どうして荷物なの?エディンバラ教会はわたしを連れ戻すのが目的じゃないの?」
首を傾げるヒリールにヨイクは事も無げに答えた。
「こいつらを差し向けたのは教会の連中じゃないってことよ。聖職者の服なら誰でも手に入るわ。おそらく、私たちのことをあまり知らない連中が私たちの実力のほどを見るためにこいつらに金を渡したのよ。その連中は今もこっそりと私たちを見ている、かも?」
リラ城の城主に追われ、エディンバラ教会に追われ、さらに何者かに狙われている。ヨイクは薄ら寒い気持ちになった。
「早く行きましょう」