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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第二章
11/52

2.ロンドンの書籍商

 リラ城は女性的な城と言われている。いくつかの灰色の円塔の上に三角形の薄青いとんがり屋根がのり、窓が小さく、壁が厚い、典型的な中世の城だ。この城は約三百年前、エディンバラ王の愛妾の城として建てられた。男女の愛憎と欲望と人血にまみれた数々のエピソードを持つ城だが、建物自体は小じんまりとして可愛らしい。


「ようし、うまくいったな」


 その城壁の外側で、北の別塔から縄をつたって滑り降りて来る人影を満足げに眺める男がいた。神秘的な月光を背に、少女たちの影が太い枝のひとつにたどりつくと、彼はその大木に向って走り出した。


 森の中は暗く、足元がおぼつかなかったが、明かりをつけるわけにはいかない。ユアン・リプトンは木の根や切り株を飛び越え、行く手を阻む小枝を掻き分けた。一面に積もる雪がほのかに明るく、そのおかげで怪我をすることはなさそうだ。


「ユアン、ここよ、ここ!」


 聞き慣れた声が頭上から降ってきたところでユアンは足を止めた。木の上にヨイクの姿を見つけ、ユアンはほっと息をついた。ヨイクの傍らには髪の長い痩せた少女がいた。この派手な脱出劇のせいか青冷めた顔は、どことなくギーヴ・バルトロメに似ている。


「救出作戦大成功よ!やっぱり私が救出役、ユアンがおとりで正解だったじゃない!」


 ヨイクが腰に両手をあててふんぞり返ると、ユアンは深刻な顔をつくって応じる。


「威張ってないで降りて来い。足を滑らせても、あんたのその重さに耐えられる自信は……」

「無礼者」


 振り下ろす拳とともにヨイクが枝から飛び降りた。鉄拳を受けたユアンは頭を抱えてその場にうずくまる。サーメ人の女は強い。ヨイクは枝に残してきてしまったヒリールを見上げた。可憐な少女は、枝にしがみついたまま声も出せない様子だった。


「ヒリール、これは私の仲間のユアン・リプトン。ユアン、ヒベルニア王の孫娘のヒリール・バルトロメよ」

「よろしく。無事でよかった」


 ユアンが微笑みを向けるとヒリールの頬がほんのりと朱に染まった。


「ヒリール、ちょっと高いけど思い切って飛んじゃうのが一番よ。雪が積もってるから怪我する心配もないわ」


 無茶を言う。相手はお姫様だ。おてんば者の民話学者と同じというわけにはいかないだろう。躊躇するヒリールを見かねて、ユアンは木の幹に近づき両手を広げた。


「大丈夫だ、頭から落ちてこない限り受け止める」

「ヒリール、安心して。無礼で無愛想だけど、どさくさに紛れてお尻を触ったりしない程度には紳士な男よ」

「……誉めてるのか?」


 ヒリールは大きく息を吸い込むと、眼をつぶって飛び降りた。落ちてくる細い身体をユアンが両腕で抱き止める。少女の両足を雪の上にそっと下ろし、ユアンは少女の表情をうかがった。ゆっくりと開かれたヒリールの目はとろんしていて夢見心地のようだ。


「あ、ありがとう、ユアン」


 ギーヴ・バルトロメの血縁者なら少々ぼんやりしていても不思議はない。何故か顔をひきつらせているヨイクに一瞥をくれてからユアンはリラ城を見た。


「どういたしまして。さあ、さっさと逃げるぞ。まだ騒ぎにはなっていないようだが、君が消えたことがばれるのは時間の問題だ」


 ヒリールがいなくなったことが分かったら、リラ城の城主は血眼になって彼女を探すだろう。ヒベルニアから流れ着き、エディンバラ教会に保護された彼女は、リラ城の城主にとって教会からの大事な預かりものなのである。事態がエディンバラ教会に伝われば、教会は教会で追手を差し向けるはずだ。それまでに何とかエディンバラ近郊から逃れなければ。


 三人は頷きあってその場を離れた。





 街道に出て馬車に乗るべく、三人は夜を徹して森の中を歩いた。ところが思った以上に雪が深く、雪道を歩くことに慣れないヒリールが遅れたため、予定していた行程の半分ほどで夜が明けてしまった。ヨイクやユアンの疲労もピークに達しており、彼らは森の中で見つけた小屋で休むことにした。


 自分が足手まといになったことを詫びるヒリールに、ヨイクは焦っても仕方がないわと言って笑った。追手から逃れるために少しでも距離を稼ぎたい気持ちは山々だが無理をしてヒリールが倒れてしまっては大変だと。


 追手もまだここまでは来ないだろうと言って火をおこし、ユアンは暖炉で野菜スープを作り、凍ったパンを火のそばに並べて温めた。ヨイクはユアンの傍らに座り、口を出すでもなくうとうととまどろんでいる。


 この二人はどういう関係なのだろう。ヒリールは小さなテーブルにつき、寄り添う二人を観察していたが、やがて視線はユアンだけに向いた。後方に撫でつけられた長めの髪は赤く、髪よりもワントーン暗い赤茶色の上着とパンツをまとい、黒いブーツを履いている。茶色の目は切れ長で、薄い唇は冷たい印象を与えるが、優しく響く彼の低い声は聴いていてとても気持ちがいい。こんなに素敵な人に出会ったことはないわとヒリールは頬を染めた。


「さあ、召し上がれ。――ほら、あんたも起きろ」


 ユアンは出来立てのスープの皿をヒリールに手渡し、暖炉の前で膝を抱えて居眠りするヨイクを揺さぶった。ヨイクは大きく伸びをしながらヒリールの向かいに腰を下ろし、手を合わせてからパンとスープを食べ始めた。椅子が二脚しかないため、ユアンは薪用の丸太に座った。


「神々の恵みに」


 ヒリールは手を組んでつぶやくとスープを口に運んだ。それはヒリールにとって人生で何度目かの粗末なもてなしだった。最初に経験したのはスコットランド北部の漁村での食事だ。ヒベルニア島の沖で嵐に逢い、船から投げ出されて流れ着いたのがその村だった。数日後にエディンバラ教会が迎えに来てからは淑女としての待遇を受けたが、あの漁村で人々から親切にしてもらったときのことは忘れられないいい思い出だった。


「私がいなくなったこと、そろそろリラ城の人たちも気が付く頃かな」


 毎朝、ヒリールを起こして身支度を手伝ってくれたのは侍女のローゼリットだった。真面目な彼女だ、ヒリールの不在を知ったらすぐに城主へ報告するだろう。もし彼らに捕まれば、エディンバラ教会はヒリールをもっと厳重に幽閉し、ヨイクとユアンは何らかの処罰を受けることになるに違いない。


「大丈夫よ。私たちが絶対に守ってあげる。あなたを必ずヒベルニアへ送っていくわ」


 ヨイクが朗らかに大きく頷いたので、ヒリールの心は少しだけ軽くなった。リラ城の侍女たちは優しかったが、こんな風に誰かと親しく話をするのは久しぶりだった。


「ありがとう」

「どういたしまして。ねえ、ヒリール。疲れてるところ本っ当に悪いんだけど、少しだけ聞かせて欲しいの、ヒベルニアのこと」


 ヒリールは温まった心が急速に冷えるのを感じた。


「――気象兵器なんてないよ」


 唇からこぼれ出たヒリールの言葉は氷のようだった。ヒリールはヨイクとユアンがどんな反応を示すかじっと窺った。ところが、ヨイクは喜びと興奮が極まったような目でヒリールの両肩をつかんだ。


「そんなのどうでもいいわ!私が知りたいのはヒベルニアに通じる海流のこととか!一角獣湾のこととか!人魚の入り江のこととか!火の山の洞窟のこととか!花砂漠の嵐のこととか!」


 勢いに任せてまくしたてながら、ヨイクは鞄の中から筆記用具を取り出した。ヒリールは彼らを警戒していた自分が恥ずかしくなり、同時に嬉しくなって思わず腰を浮かした。


「な、なんでそんなにヒベルニアのことを知ってるの?今までにお話した人たちの誰もそこまで知らなかったのに」

「私はヒベルニアの研究をしてるの。エディンバラ教会の付け焼刃的知識なんて、たかが知れてるでしょうね」


 暖炉にかけていた鍋が沸騰した。ユアンが紅茶のポットに湯を注ぐ。


「ヒリール、あなた、船が難破してヒベルニアから流されて来たのよねえ。私は、ヒベルニアへ続く海流は一方通行だって聞いてるんだけど、違うの?」


「わたしも一方通行だって聞いてたよ。でも、わたしはこうしてスコットランドへ流れ着いたし、どういうわけか、ときどきヒベルニアの方角からの漂着物が海岸に打ち上げられることがあるって、わたしを助けてくれた漁村の人が言ってた。マキシムおじいさまなら、その理由を知っているかもしれない」


 二人のやり取りに、ユアンが紅茶を入れる手を止めた。凶悪な顔でヨイクを睨んでいる 。


「ちょっと待て、そこの民話学者」


 ヨイクはうるさげにユアンを振り向いた。


「何よ、ユアン。あたしの学者生命がかかった大事な話をしてるときに」

「口を挟まずにいられるか!ヒベルニアへ続く海流が一方通行だなんて聞いてないぞ!」

「誰にも言ってないもん。そんなこと言ったら、誰もヒベルニアへ行きたがらないでしょ?」

「当然だ!あんたはともかく、おれはヒベルニアに骨を埋めるなんて御免だからな!」

「やあね、私だって嫌よ。まあ何とかなるでしょ、現にヒリールはこうしてヒベルニアからこっちへやって来てるわけだし」


 偉そうにふんぞり返るヨイクとぷりぷりと怒るユアンを交互に見ながら、ヒリールは唇を尖らせた。


「ねえ、ヨイクとユアンは夫婦?」

「はあ?そんなわけないじゃない。名前だって違うでしょ、私はヨイク・アールト、彼はユアン・リプトン」

「じゃあ、恋人同士?」

「はあ?」

「違うの?」

「当っ然!第一、私には婚約者が……」


 ヨイクは言いかけて口ごもり、それから忌々しげに頭を振った。すると彼女の波打つ金髪がふわふわと揺れ、ヒリールの興味はヨイクの髪形に向いた。ヒリールの髪は真っ直ぐなので、ヨイクのようにウェーブのかかった髪が少し羨ましかった。金色というのも魅力的だ。祖父マキシムが金髪だからヒリールがそれを受け継いでいてもおかしくないのだが、残念ながら彼女の髪は明るい茶色である。


「おれたちはビジネスパートナーだ」


 嘆息と共に言ったのはユアンだった。ヒリールは聞き慣れない言葉に首をかしげた。


「ビジネスパートナー?」

「彼女は民話学者で、おれは書籍商、つまり本屋だ。おれは彼女の旅と研究に出資、つまり金を出していて、彼女の本をロンドンで印刷したり、世界中の書店に売りさばいたりして利益を得ている。そして利益の一部で、彼女の次の旅と研究に出資する、その繰り返しだな」


「そういうこと。私はお金の計算とか、製本とか、書店との交渉とかできないからね。面倒なことは全部ユアンにやってもらってるの」


 ヨイクとユアンを交互に眺め、ヒリールは腑に落ちないものを感じた。彼らは合理的な協力者というだけではないような気がするのだ。


 ヒリールがうっかり欠伸をすると、ヨイクが立ち上がって小屋の隅に毛布を敷いてくれた。彼女に促されるまま眠りに落ちていく途中で、ヒリールは久しぶりにいい夢が見られそうだと思った。



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