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ヒベルニアの極光  作者: 葉梨
第二章
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1.民話学者の冒険

第二章のはじまり。

おはなしはスコットランドを旅する民話学者と書籍商へ。

 ヨイク・アールトは初めて旅立つとき、父親にこう諭された。


「ヨイク、世の中には女の仕事というものがある。それを放棄しては世の中が成り立たないのだ。お前の好きな民話だってそうだ。妖精が妖精の仕事をしなくなったら困るだろう。誰が子供をさらうんだ」


 ヨイクは鼻にもかけなかった。


「お父さん、人類の半数は女よ。女の仕事は彼らに任せて、私は私の、私にしかできない仕事をするわ。私ほどの民話学者は、人類の中にも二人といないんだから」


 その後、彼女は自分の言ったことの正しさを証明した。一年かけて北欧諸国を周り、知られざる民間伝承を集めて本にまとめたのだ。『北欧伝承余話』は二カ国語に翻訳され、イギリスやフランスを中心にベストセラーになった。


 だが、二度目の冒険に出るとき、彼女は婚約者にこう懇願された。


「君は女にしてはずいぶん自由に生きてきたんだ、もう充分だろう。お願いだから、危険な旅も難しい研究も今すぐ全部やめて、僕と結婚してほしい。君を必ず幸せにすると約束するから」


 これにはさすがの才女も弱りはてた。彼は子供のころからの親友だったし、彼ならば約束通りヨイクを幸せにしてくれるだろうと思う。しかも二人とも結婚適齢期の十八歳である。だが、ヨイクは自分が望むものが何か、よく分かっていた。彼もそうならいいのに。ヨイクは幼馴染みの青年を憐れむように見ると、言葉を選んでこう答えた。


「あなたが私を待てないというなら永遠にさよならよ。私にはまだ、やりたいことがたくさんあるの。見たいものも、知りたいことも、触りたいものも山のようにある。匂いをかいだり、肌で感じたり、自分の耳で聞いたり、そういうことをするために私は旅に出るのよ」


「僕が君を待てないならさよならだって?僕はいつだって君を待ってた!この前だって、半年で戻ると言って旅立った君を一年も待ち続けたよ!君が危ない目にあっているかもしれない、病気になっているかもしれない、大怪我をしているかもしれない、もしかしたら命を落としたのかもしれない、僕はそんな不安を抱えて、来る日も来る日も君を待っていた!僕にもう一度、あの地獄のような生活をしろというのか!君には分からないかもしれないが、あの時、僕は狂い死んでしまいそうだったんだよ!」


 婚約者の熱い眼差しを真正面から受け止め、ヨイクは初めて自分の心が揺れ動くのを感じた。それまでは罪悪感を覚えることはあっても出発を迷ったことなど一度もなかったというのに。いつも穏やかな彼がこんな風に感情を露にしたのも初めてのことだった。どきどきと高鳴る胸を拳で抑え、ヨイクは迷いを振り払った。


「心配かけたことは謝るわ、ごめんなさい。でも今旅に出なければ、きっと私は後悔する。あなたと幸せになっても後悔する。どんなに不幸になったっていい、誰に馬鹿にされてもいい、私は私が生きる意味と喜びが欲しいわ。一生それを追い続けるわ、たとえ今あなたを失っても」


 ヨイクは自分が震えているのではないかと思った。もしかしたら、自分は道を間違えようとしているのかもしれない。もしかしたら、この最後通牒を後々悔むことになるもしれない。これは身勝手な自分をずっと待ち続けてくれた愛情深い彼へ恩を仇で返すような行為だ。己のあまりの傲慢さに改めて気がつき、ヨイクの良心は痛んだ。だが、腹から出した声はヨイク自身がびっくりするほど冷静だった。


「明朝、村を出るわ。今度の旅は特別な旅で、恐らく、私はエディンバラ教会に追われる身になる。それでも私の帰りを待っていてくれるか、私と別れるか。出港までにあなたの答えを聞かせて」


 翌朝、彼は港へ来なかった。代りに、彼の友人が彼からの手紙を持って現れた。ヨイクはその手紙の封をまだ開けていない。





 峻険な地形、過酷な自然。それがスコットランドの代名詞だ。町から町への移動は困難で、直線距離ではそう遠くない隣町へ、山を越え、川を渡り、谷や湖を迂回してようやくたどり着くということがザラにある。


 だから、エディンバラ近郊の深い森の中を三日も歩き続け、へとへとになってリラ城にたどり着いた人物がヤケクソになってしまっていても仕方がない。降り積もった雪が辺り一面をほのかに白く照らす夕闇に、陽気なバイオリンの音が響き渡ったのはその時だ。


「ジャグリングをします」


 のたまったのは背の高い赤毛の男だった。


「困ります」


 答えたのは城の執事だ。


「始めます」


 赤毛の男は仏頂面で言うと、持っていたバイオリンを地面に置いてジャグリングを始めた。密かな宴会芸として月に数回披露しているだけあって手慣れたものだ。


「突然困ります、お引き取りを!」

「まあまあそう言わず、見て下さい、あらよっと」

「え、衛兵!」

「まあまあまあまあ」


 その押し問答はリラ城というロマンチックな城の正面入口で繰り広げられている。強引にジャグリングを始めた赤毛の男のもとへ衛兵が集まり、メイドが集まり、しまいには城主まで現れた。それを確認してから、立派な庭園の木のしげみで動き始めた人影があった。少女から大人に変わる年頃の女性だ。


 俊敏で身軽な彼女はあっという間に北の別塔にたどり着く。見上げると最上階の窓の隙間から橙色の明かりが漏れている。彼女はその窓に向って、慣れた手つきで縄梯子の先端を放り投げる。縄を投げるのは子供のころから大得意だ。おかげで民話学者ヨイク・アールトが捕まえたトナカイの数は父より多い。彼女はノルウェー生まれのサーメ人で、自称純真無垢な十八歳の乙女だ。


「ちょろいもんだわ」


 縄梯子がかかると、ヨイクはすいすいと梯子を登り、あっという間に塔の最上階にたどり着いた。木の窓をそっと開けて中を覗くと、暖かな暖炉のそばに座り込んだ少女が、眼を丸くしてヨイクを顧みた。


「こんばんは」


 ヨイクは寒さでこわばった頬をむりやり動かしにっこりと笑う。悲鳴を上げられたりしては面倒だから、まずは警戒を解いてもらわなくては。窓枠に両肘をつき、民話学者は被っていた赤い帽子を取った。


「びっくりさせてごめんなさいね。はじめまして、私はヨイク・アールト。民話学者よ」


 ヨイクが言うと、少女はその場に立ち上がった。彼女の歳は十四五歳に見えた。痩せていて手足が長く、まるで少年のような体形だったが、腰まで届く明るい茶色の髪や愛らしい目鼻立ちが彼女を女性らしく見せており、足首が隠れる丈の白いドレスが妖精のような雰囲気を醸し出している。


「とりあえず中に入れてくれると嬉しいんだけど、どうかしら」


 少女がこっくりと頷き、ヨイクはひょいと窓枠を飛び越えた。ブーツを履いた両足で軽やかに着地する。暖炉に燃えさかる炎のおかげで室内は暖かかった。部屋の中をぐるりと見渡すと、大きな寝台や壁の絵画、マントルピースなどを始めとして、はっきり言ってギーヴ・バルトロメの幽閉されていた部屋より格段に豪華である。ヨイクは複雑な心境で縄梯子を回収した。


「わたし、ヒリール・バルトロメ。ヒベルニア王マキシムの孫だよ」


 言いながら、ヒリールは大きな茶色の瞳で珍しそうにヨイクを見つめた。ヨイクの服装は生まれ故郷の民族衣装だ。大きく波打つ長い金色の髪に青い瞳の民話学者は、藍色の膝丈ワンピースの上にトナカイ革の上着とブーツと鞄を身につけている。ワンピースの下に履いた細身のパンツや大小の布袋を付けた腰のベルトもトナカイ革だ。ワンピースには赤色の糸で独特の刺繍がほどこされていて、彼女が手に持っている耳まで覆う帽子もその赤い糸で頑丈に織られている。斜め掛けの小ぶりの鞄からは地図やメモの束が盛大にはみ出していて、これもやはりトナカイの皮でつくられたものだ。


「ヒリール……アイルランド神話の海神の名前ね。ギーヴ猊下から聞いてると思うけど、私は彼に頼まれて、あなたを迎えに来たの、すぐに支度して欲しいんだけど構わないかしら?」


 少女は諸手をあげて歓声を上げた。


「あなたがギーヴおじいさまの言ってた人ね!良かった!これでヒベルニアへ帰れるんだ!」


 嬉し泣きしそうな勢いの少女にヨイクは思わず笑ってしまった。


「話が早くて助かるわ。今、正面玄関で仲間が城の人たちの気を引いているから、今のうちに逃げましょう」

「わたし、あなたが来てくれるのをずっと待ってたの!すぐに支度する!荷作りもだいたいできてるから本当にすぐだよ!」


 ヒリールが狭い部屋の中を行ったり来たりしながら支度するのを、ヨイクはぼんやりと見ていた。本当はヒベルニアについて質問したり、自分や相方のことを話すべきなのだが、少女の発した「あなたをずっと待っていた」という言葉に、婚約者のことをつい思い出してしまったのだ。


 ヨイクは斜め掛けの鞄を開け、婚約者からの手紙が入っていることを確かめてからヒリールをちらりと見た。ヒベルニア王の孫娘は興奮しているのか独り言を言いながら忙しなく身支度しているが、その傍らにはまとまりそうにない私物がごろごろと転がっている。リラ城の主は彼女にずいぶん贈り物をしたようだ。もうしばらく彼女を待つことになるなら。ヨイクは婚約者からの手紙を鞄から取り出した。


『ヨイクへ。カームスより』


 封筒に踊るその文字だけは、今まで何度も読み返してきた。ヨイクは思い切って封を切った。中からは二つ折にされた一枚の紙が現れる。


 一枚。ヨイクは手を止めた。たった一枚の手紙で、彼は私との縁を切ったのだろうか。いや、まだ別れの手紙と決まったわけではない。だが、ヨイクの出発する朝、彼が港に現れなかったことを思い出すと、自然と手紙の内容は想像できた。


「ごめんなさい、お待たせ、ヨイク」


 支度を終えたヒリールに声をかけられ、ヨイクは我に返った。読んでいない手紙を鞄にしまい込み、ヨイクは暖炉の火に灰をかけるのを手伝った。ヒリールはミルク色の毛皮のコートを羽織り、裏地に毛皮を張った温かそうなブーツを履いている。手には何も持っていない。


「あら、荷物は?着替えとか、金目のものはあって困らないわよ」

「うん、そういうの、全部身につけたから、平気」


 ぽんぽんとミルク色のコートを叩き、ヒリールは無邪気に笑った。なるほど、毛皮のコートの下に持ち物を着ているということか。そういえばコートのポケットから飛び出しているのはヘアブラシの柄のようだった。


 ヨイクは窓に近づき、鞄にくくりつけていた長い縄をほどいて城壁の向こうの大木に投げた。石のついた縄の先端はぐるぐると太い枝に巻きつく。こちら側の先端を豪華な寝台の足に結ぶと、夜の闇の中に一本の縄がピンと張った。ヨイクは窓枠に立ち、への字型の金属を取り出すと青い目を輝かせて言った。


「さて、忘れものはないわね?」


 知らず知らずのうちにわくわくと心を躍らせている自分がいる。これだから冒険はやめられないのだ。ヨイクは悪びれもせずにそう思うと、脳裏にちらつく婚約者の面影を丸めて暖炉に投げ込んだ。


 すべてが終わるまで、彼のことは考えない、そうするわ。


「うん!」


 緊張した面持ちで頷いたヒリールにヨイクは自分の赤い帽子を被せた。


「しっかり私に捕まって、行くわよ!」


 張りつめた縄にへの字型の金属をかけ、皮手袋をした手でその両端をつかむと、ヨイクは思い切り窓枠を蹴った。ヨイクの身体に後ろから抱きつくヒリールが押し殺した悲鳴を上げる。


「ヨイクぅうう!」


 二人の少女の体が闇に踊る。ヨイクの持つ金属が縄を滑り、それにぶら下がった二人は冷たい夜の空気を突っ切って緩やかに下降していく。ヒリールがヨイクの背中に顔を押し付けると、民話学者は心底楽しそうに白い歯を見せて笑った。


「目を開けないと後悔するわよ!」


 雲の向こうに薄らと月が光る。その月明かりに、降り積もった雪や真っ白な深い森やリラ城が浮かび上がる。


 ヨイクは思う。

 夜の闇は優しい。民話や物語が語られるのは、こんな夜が、ふさわしい。



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