プロローグ
災害によって心や体を傷つけられたすべての方に、この作品を捧げます。
夜明けが来ても 西を向いていればまだ夜だ
朝が来ても 目を閉じていれば真夜中だ
もし 太陽が昇らなかったら
東へ向かって走ればいい
僕と 世界の夜明けを見に行こう
夜の向こうには朝が
暗闇の向こうには光が
混沌の先には希望が
必ず僕らを待っている
(オペラ『ラヴェル』より「夜明け」)
***
しかし、マキシムの弟は言いました。
「だけどまだ、諦めるのは早いんじゃないか」
生まれてからずっと共に歩んできた双子の兄に異を唱えたのは、彼にとって初めてのことでした。
「まだ、諦めるのは早いんじゃないか。いつかきっとエディンバラ教会とクラシック教徒が共存できるようになる。そうしたら、俺もみんなの後を追ってヒベルニアへ行くよ。どうかそれまで、俺と、彼女と、彼女のお腹に宿るおまえの子供のことを待っていてくれないか」
マキシムの妻は別れを惜しんで涙を流しました。
「きっとすぐに追いつくから待っていて。約束よ、マキシム」
「ああ、約束する」
「約束だ」
三人は誓い合い、そうして散り散りに別れたのです。しかし、約束は果たされないまま、それから六十年が経とうとしています――。
(ヨイク・アールト著 『クラシックの歴史』(リプトン書店、1767年) より 一部抜粋)
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そのとき、ウイスキー修道院の塀を飛び越えた者がいた。
猫のようにしなやかな人影が修道院の庭に音もなく着地する。まるで漆黒の闇夜に現れた伝説の盗賊のようだった。修道院の塀の高さは二メートル以上あり、その上、塀の外をぐるりと掘が囲んでいる。そんな芸当を難なくやってのけるのはこの町でも彼くらいだろう。
「いい匂い」
形の良い両眉を上げ、彼は鼻腔を膨らませた。ついでに両腕を広げて月も星も見えない天を仰ぎ、その場でぐるぐると回る。しばらく子供じみた遊びに興じていると、彼の短い茶色の髪が、しっとりと甘い夜霧に濡れた。この修道院はその名の通り、ウイスキーを蒸留している。
魅惑的な香りに酔いしれてはいるが、彼は酒に深く酔う性質ではない。彼の酒の強さは大酒飲みの多いこのアイルランドでも抜きん出ていて、今夜も行きつけのパブの閉店時間までビールを飲んでいた。酔いの回った客に酒を薄めて出す店主も、彼だけはまだ騙せずにいるというもっぱらの噂である。ちなみに飲酒に年齢制限はなく、紳士としての振る舞いさえできれば、誰もが好きなだけ酒を飲むことができる。その代り、泥酔など絶対にしてはいけない。
朝から建設現場で働き、夕方には行きつけのパブでギネスビールを飲み、夜が更ければ歌を歌い楽器を鳴らし、深夜になって町はずれの修道院へ帰って来るというのが彼の日課だった。門限に間に合わず、塀を乗り越えて修道院内のねぐらに戻るのもいつものことだ。昼間はウイスキー造りやレース網みや農作業に精を出すおせっかい焼きの修道女がうろうろしているこの庭も、深夜を過ぎた今ではしんと静まり返っている。建物から火の気は消えていて、どんなに耳をすましても物音の一つもしない。
修道女たちの眠りを妨げることのないようにと彼はそっと草を踏んで庭を横切った。敷地内には修道女や病人が寝起きする居住棟と事務所、礼拝堂が建っていて、礼拝堂の裏には果樹園や畑が広がり、そこでは林檎や野菜や小麦をつくっている。彼は礼拝堂の横を通り過ぎ、木の葉や小枝を踏みしめて収穫の済んだ果樹園を抜ける。その先にある開けた草地へ近づくにつれ、彼の足取りは徐々に重くなっていった。
「ただいま、帰ったよ」
彼が足を止めた場所は墓地だった。本来は修道院内で亡くなった老人や病人を葬るための墓地だが、最も新しい墓標の一つには彼の妹の名が刻まれている。彼は草地に片膝をつき、冷たい石の墓標にそっと触れた。
「今日も三月地震で壊れた旧街道の石畳を直したよ。幹線道路や街の中心部の修繕が済んだから、やっと旧街道に手をつけられるようになったんだ」
今から九ヶ月前の一七六五年三月九日、未曾有の大地震がヨーロッパ全域を襲った。 震源地は各地に散らばる断層や火山であったが、それらがほぼ同時に大地震を引き起こした原因は解明されておらず、地震とそれに続いて起こった津波や火事、大雨や洪水などの災害は総じて三月地震と呼ばれている。
大地震は町や道や港湾を壊し、津波や洪水は建物や家畜や農作物を押し流したが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。三月地震の発生から今日までの九ヶ月間、世界中の空が分厚い雲に覆われて一度も太陽の光が差さないのだ。最初は火山灰が上空を舞っているだけだろうと楽観的に考えていた者もいたが、しばらくするとそんなことを口にする者は誰もいなくなった。太陽の光が差さない、たったそれだけのことがどんなに恐ろしい未来を紡ぎだすのか、秋が訪れるまでもなく人々は悟っていた。人間が口にする農作物も、家畜の飼料も、魚介の餌となる微生物も、十分な日差しがなければ育たないのだ。
案の定、今秋の収穫は昨年の半分以下で、世界中が厳しい飢饉に見舞われている。彼の住むアイルランドも例外ではなく、ビールは値上がりするし、育ち盛りだというのに一日二回の食事はジャガイモ料理ばかりだ。
「三月地震は神が我々に与えた試練である。神のしもべとして祈りを絶やさず善行に励むことを欲する。災害の混乱に乗じて悪事を働けば決して神の国に行くことはできない。最後の審判を忘れることなかれ」
そのエディンバラ教皇の声明は日曜の礼拝で馴染みの司祭の口から耳にたこができるほど聞いた。それならオレはもう神の国には行けないな。彼は自嘲して墓標に触れていた手をだらりと垂らした。
とん。
遠くでかすかな音が聞こえた。少し前に彼がしたように、誰かが修道院の塀を乗り越え庭に着地したような音だ。彼は素早く立ち上がり、足音を忍ばせて来た道を戻った。果樹園の林檎の木の隙間からそっと様子をうかがうと、背の高い男の影がゆっくりと居住棟へ向かうのが見えた。
ウイスキー修道院はこの港町ベルファスト唯一の女子修道院である。老病人以外の男性の立ち入りは日の出から日没までと決められているので、こんな真夜中に男が訪ねて来るのはおかしなことだった。見知らぬ訪問者は実にのんびりと、暢気にゆったり歩いている。応対に出るべきかと彼が林檎の木の影で思案していると、訪問者の男は思い立ったように急に方向転換して彼のいる果樹園に身体を向けた。
男は聖職者のようだった。暗闇に浮かび上がるほど白い肌と背中で結んだ金褐色の長い髪がとても上品で、地面に届きそうなほど丈の長い濃紺色の法衣をまとった身体はがっしりとしている。年の頃は壮年に見えた。長いまつげに縁取られた瞳は翡翠色で、腰に提げている数珠も同じ色をしていた。
相手が聖職者と分かると彼は林檎の木の影から出た。男も彼に気が付いたようで、ゆっくりとした動作で彼の方を見た。
「こんばんは」
男の口から聞こえたのは、音楽のような声だった。低く響く穏やかな声で暢気な挨拶をしながら、男は彼に向かって微笑んだ。だが、その微笑みが一瞬のうちに固まったのを彼は見逃さなかった。男は彼の顔を穴があくほどじっと見つめたり、芝居じみた仕草で自分の目をこすったりしている。
「こんばんは。……あの、何か?」
居心地の悪い思いで彼が問うと、男は我に返ったように居住まいを正したが、すぐに愛好を崩して再び親しげに彼を見つめた。それはうっとりと、愛おしみ慈しむような瞳だった。はっきり言って気持ちが悪い。男が聖職者だと知って安心していた気持ちが消え、彼の心に警戒心が生まれた。だが同時に何かもっと根の深い感情が、彼の心の隅っこでわずかに疼いた。それが何なのかは今の彼には分からない。
「ああ、ごめん。シスター・アンジェラの若い頃にあんまりそっくりだからびっくりしちゃった。――君はシスター・アンジェラの曾孫のコルガー・バルトロメかな?」