第9話:ヒロインの計算違いと、バグだらけの迷宮
【泥濘の中で見るステータス】
叩きつけるような冷水の暴力が止んだ後、アビス・ダンジョンの入り口には、無残に打ち捨てられたボロボロの一団が残されていた。 王国遠征隊。その中心で、聖女セラフィナは泥水の中に顔を半分埋めながら、小刻みに震えていた。
視界が滲む。だが、彼女の瞳にだけは、この世界の住人には決して見えないはずの「光」が浮かんでいた。
――レオンハルト王子の好感度:九十%。 ――ブランドン団長の好感度:依存状態。 ――現在のシナリオ進行度:第一章・断罪と迷宮。
セラフィナは心の中で、苛立ちと共にその数値を弾いた。 彼女にとって、この世界は乙女ゲームそのものである。自分は愛されるべきヒロインであり、周囲の人間は好感度を稼ぐための駒、あるいはログインボーナスを捧げてくるだけの存在に過ぎない。
――おかしいですわ。こんなの、絶対に設定ミスですわ。
セラフィナは泥を吐き出し、重い瞼を持ち上げた。 本来のシナリオであれば、追放されたアリシアは今頃、この迷宮の不潔な瘴気に当てられ、魔物に怯えながら汚物の中で泣き叫んでいるはずだった。そこへ聖女である自分が現れ、慈悲の光で魔物を退け、絶望する騎士たちを救い、アリシアの惨めな最期を看取ることで、全員の好感度が完遂する。それが、完成されたハッピーエンドのはずなのだ。
――どうしてあの悪役令嬢、あんな場所で、ポテトチップスを食べていられますの? そもそも、あの門は何なんですの!? 設定資料集にも、攻略サイトにも、あんな近代的なギミックなんて一行も載っていませんでしたわ!
セラフィナの独白は、もはや恐怖ではなく、予定調和を乱されたことへの不快感に満ちていた。
「アリシア様……。なんて、なんて酷いことをなさるんですの……ウル。」
セラフィナは、自分を見つめる騎士たちの視線に気づくと、即座に「悲劇のヒロイン」へと切り替えた。潤んだ瞳から一滴の涙を零し、折れそうなほど細い肩を震わせる。
「わたくしの光が通じないなんて……。アリシア様は、この迷宮の呪いを取り込んで、完全に汚れてしまったんですのね。ああ、かわいそう。あまりにも、救いようがありませんわ……」
騎士たちがその白々しい演技に当てられ、「聖女様を傷つけるとは!」と憤慨する。それを見ながら、セラフィナの心臓は、怒りと歪んだ優越感でドクドクと脈打っていた。
【シナリオ・ナビの警告】
セラフィナは立ち上がり、背後の門を今一度振り返った。 彼女には、相手の頭上に浮かぶ「属性」や「フラグ」を読み取る力がある。かつての宿敵、アリシア・フォン・アステリア。彼女の頭上には、本来なら赤黒い『断罪フラグ』が重々しく浮かび、破滅へのカウントダウンが刻まれているはずだった。
しかし、セラフィナが凝視したその先にあったのは、理解不能な文字列だった。
『――ERROR:存在しない設定です』 『――ERROR:測定不能な領域に達しています』
真っ赤なエラーメッセージが、アリシアのいた方角で狂ったように点滅している。
――バグ。そう、これはバグですわ。あの女、本来ならこのダンジョンで死ぬはずの端役に成り下がったはずなのに、システムを改竄して居座っているんですのね。
セラフィナの口角が、他人には見えない角度で吊り上がった。
――わたくしこそがこの世界の中心、愛されるヒロイン。シナリオを乱すイレギュラーは、徹底的に排除して、元の綺麗な物語に戻さなくてはなりませんの。わたくしに祈りを捧げる愚民たちの期待に応えるためにも、あのバグを排除して差し上げますわ。
「……見ていなさい。どんなに強力な魔導具を揃えても、わたくしの聖女の権能には勝てませんのよ。わたくしはこの世界の主役なんですもの」
彼女の呟きは、湿ったアビスの風に呑まれて消えた。
【王都への泣き落とし報告】
数日後。 王都オーレリアの王宮に、見る影もなく憔悴した聖女一行が帰還した。 謁見の間で待ち構えていたレオンハルト王子は、びしょ濡れでドレスを台無しにしたセラフィナの姿を見るなり、玉座から飛び出した。
「セラフィナ! 貴方ともあろう者が、一体どうしたというのだ!」
「レオンハルト様……っ!」
セラフィナは崩れ落ちるように王子の胸へ飛び込んだ。その瞬間、彼女は意識的に自身の魔力を微弱に放出し、相手の判断力を鈍らせる「魅了」の権能を織り交ぜた。
「アリシア様が……あの方が、恐ろしい古代の魔道具を独占し、わたくしたちを虐待しましたの。わたくし、ただお話し合いがしたかっただけなのに。あの方は『この楽園はわたくしのもの。王国の連中などゴミ以下だ』と仰って、あんな冷たいお水で、わたくしたちを……」
セラフィナの声は嗚咽に途切れる。レオンハルトは彼女を抱き締め、その顔を怒りで真っ赤に染めた。
「何だと!? あの女、追放されてなお増長し、王国を……そして我が愛しきセラフィナを愚弄したというのか!」
「ええ……。あの方はもう、わたくしたちの知っているアリシア様ではありませんわ。迷宮の闇に魅入られた、傲慢な魔女ですの。このままでは、王国までその闇に呑まれてしまいますわ。……レオンハルト様、わたくし怖いですの」
「案ずるな、セラフィナ。もはや一介の部隊で手に負える相手ではないようだな。……よし、国軍の魔導師団を投入する。大陸最高の殲滅魔法をもって、あのアビスの穴ごと、あの女を焼き尽くしてくれよう!」
王子の咆哮に、セラフィナは彼の胸に顔を埋めたまま、静かに舌を出した。
【アリシアの更なる投資】
その頃、アビス・ダンジョンの最深部――楽園のリビング。 アリシアは、空気清浄機がかすかな風を送る快適な室内で、モニターに映る王宮の様子を眺めていた。ジェネシスの端末を通じ、王都に放った小型の監視ドローンが、聖女の嘘八百を克明に伝えてきているのだ。
「……あらあら。随分と賑やかなお芝居ですこと。あの方は、物語の悲劇を演じるのがよほどお好きのようですわね」
アリシアは、ルルが淹れたばかりの冷たいハーブティーを一口飲み、小さく溜息をついた。 モニターの中では、王子が魔導師団の動員を宣言している。
「懲りない方たち。わたくしの静かな隠居生活を、どこまで踏みにじれば気が済むのかしら。カイル、ルル。どうやら次は、少しばかり『騒がしい』方たちがやってくるようですわ」
「……お嬢様、次は魔導師団だそうですよ。国軍の主力です。流石に、門のワックスがけだけじゃ済まないんじゃありませんか?」
カイルの心配そうな声を、アリシアは優雅な手つきで制した。 彼女の視線は、既にモニターを離れ、手元に浮かぶジェネシスの黒い石版へと注がれている。
「ええ、その通りですわ。おもてなしには、常に『相応の対価』が必要。相手が全力を注ぐと言うのなら、わたくしも、この楽園を統治する領主として、相応の設備投資をしなければなりませんわね」
アリシアの瞳が、妖しく虹色に輝いた。 彼女の指先が、画面上に並ぶ、ひときわ巨大で禍々しい輝きを放つ「十連」のボタンにかけられる。
「ジェネシス。溜まった魔力結晶をすべて解放しなさい。……来なさい、わたくしの期待に応える、極上の『おもちゃ』たち」
『――了解。緊急防衛アップデート:十連リミテッド・ガチャ、実行します』
瞬間、部屋中が、そして洞窟の壁すべてが、これまでとは比較にならないほどの虹色の光に焼き尽くされた。 爆速で回転する光の渦の中に、未知なる兵器、未知なる施設、そして未知なる「理」が次々と姿を現していく。
アリシアの口角が、不敵に吊り上がった。
「ふふ……。さて、次の『ゴミ出し』は、どのような演出にいたしましょうか」
光の中に浮かび上がる排出アイテムの影を見つめながら、アリシアは不敵な笑みを深く刻んだ。




