第29話:楽園の請求書と、王都のゴミ掃除
【神の龍で行く、優雅なタクシーの旅】
アビスの空を切り裂き、巨大な漆黒の翼が羽ばたく。 かつて神話において世界を焼き尽くすと恐れられた新龍族の王バハムート――もとい、アリシアの愛玩動物である「クロちゃん」の背中には、今、優雅なティーテーブルと四人の人間が乗っていた。
「ぎ、ぎゃあああああああああ! 死ぬ! 死ぬ死ぬ死ぬ! お嬢様、高度! 高度がおかしいですって! 雲が! 雲が僕の鼻先をかすめていきましたよ今ぁ!」
カイルが龍の鱗にしがみつき、涙目で絶叫する。その横で、アリシアは揺れ一つない特等席に座り、涼しい顔で紅茶を啜っていた。
「騒がしいですわね、カイル。クロちゃんはとても安全運転ですわよ? ほら、見てごらんなさい。眼下に見える王都が、まるでお掃除を待つ小さなゴミ箱のように見えますわ」
「ゴミ箱って! あれ僕たちの故郷! っていうかお嬢様、龍の王様をタクシー代わりに使うなんて、王都の人が見たら腰抜かしてショック死しちゃいますよ!」
「あら、徒歩ではわたくしのお気に入りの靴が汚れてしまいますもの。淑女の嗜みとして、清潔な移動手段を確保するのは当然の備えではなくて?」
アリシアは、クロちゃんの頭を「よしよし、いい子ですわね」と撫でる。新龍族の王は、それだけで嬉しそうに「クルゥ……」と喉を鳴らし、さらに加速した。
「……なるほど。高みから戦地を見下ろすことで、不浄な者の動向を完全に把握する。これぞ、支配者としての正しい姿勢……。メモを、メモを取らねば」
レオナードが真面目な顔で筆走らせる。
「レオナードさんまで何納得してるんですか!」
そんな喧騒をよそに、王都オーレリアの城門が見えてきた。 門番たちは空を覆う巨大な影に気づき、槍を投げ捨てて「世界の終わりだぁぁぁ!」と絶叫しながら逃げ惑う。クロちゃんが悠然と広場に着陸すると、石畳が悲鳴を上げ、周囲の馬車が風圧でひっくり返った。
「さて。ようやく着きましたわね。……不潔な空気ですこと。カイル、わたくしの鼻が曲がる前に、さっさと用事を済ませますわよ」
アリシアは日傘を差し、失神した門番の身体を優雅に跨いで、王宮へと歩みを進めた。
【手のひら返しの王子と、恐怖の紙切れ】
王宮の謁見の間。 そこには、震えながら玉座に座る国王と、期待に満ちた(しかし下卑た)笑みを浮かべるレオンハルト第一王子が待っていた。
「ああ、アリシア! 君ならやってくれると信じていたよ! アビスの魔族共を退け、伝説の龍まで従えて帰ってくるとは……! やはり僕の婚約者に相応しいのは君だったんだ!」
どの口が言うのか。 数ヶ月前、アリシアを罪人扱いして追放したのは彼である。レオンハルト王子は、アリシアの美しさと背後に控えるクロちゃんの威圧感に目を輝かせ、縋りつくような足取りで歩み寄ってきた。
「さあ、こちらへ! 君の功績は父上も認めている。今すぐあの者との婚約を破棄して、君を正妻として迎えてあげようではないか!」
アリシアは、王子の差し出した手を扇子でピシャリと撥ね退けた。
「あら、ご機嫌麗しゅう、レオンハルト様。……どちら様かは存じ上げませんが、わたくしの身体に気安く触れないでいただけます? 不潔ですわ」
「な……っ!? 君、何を……」
「わたくし、今日は思い出話をしに来たわけではありませんの。……ルル、例の物を」
「はい、アリシア様」
背後に控えていたルルが、無機質な表情で一枚の長い、長ーい紙を取り出した。そこには、びっしりと文字と数字が書き込まれている。
「レオンハルト様。こちらは今回、わたくしがアビスで行った『広域お掃除代行費用』の控えですわ。ご確認いただけますかしら?」
「お、掃除……代行費用……?」
アリシアは、優雅に請求項目を読み上げ始めた。
「まず、先週火曜、アビス第一層にて。不法投棄されていた雑魚魔族1,000体の完全消去。これに伴う消毒費用。……次に、アビス最深部にて。世界を乱す不作法な『四魔貴族』四体の強制排除および浄化。さらに、新龍族の王のタクシー利用料、カイルの精神安定剤代、ルルの残業代……。合計して、八千万ギルになりますわ。あ、こちらは早割キャンペーン適用後の価格ですので、お早めにお支払いくださいな」
静まり返る謁見の間。 カイルが横から紙を覗き込み、顔を青白くさせた。
「お、お嬢様……これ、金貨が山積みになっても足りませんよ。国を三つ買ってもお釣りが来るし、なんなら隣の帝国もまとめて借金で潰れるレベルの額です!」
「あら、妥当な金額ですわ。わたくしの楽園を汚した落とし前としては、これでも勉強させていただいた方ですもの」
王子は顔を引き攣らせ、泡を吹かんばかりに狼狽した。
「ば、馬鹿な! そんな額、払えるわけがないだろう! そもそも、あの魔族共は君が呼び寄せた自作自演ではないのか!? そうに決まっている! この詐欺師め!」
アリシアの予測は完璧だった。 彼女はため息をつき、ジェネシスをスッと翳す。
「ふふ、そう仰ると思いましたわ。ですが、レオンハルト様。わたくしの計算では、この王国の宝物庫にあるすべての財産を没収しても、まだ足りませんの。……お支払いが滞っているお客様には、それ相応の『強制清掃』が必要なようですわね」
アリシアの背後で、クロちゃんの咆哮が王宮全体を揺らした。
【聖女の仮面】
「……やめて……壊さないで……私の、私の世界を……」
玉座の隅で、ボロ布のようにうずくまっていた少女が、ふらりと立ち上がった。 セラフィナ。「聖女」として持て囃され、アリシアを追い出した張本人だ。 彼女の瞳には光がなく、ただ虚空を見つめていたが、アリシアと視線が合った瞬間、その瞳に異様な「正気」が宿った。
「あ……アリシア様! 酷いですわ、そんな……! わたくし、ただ皆様をお救いしたかっただけなのに……!」
瞬時に「悲劇のヒロイン」を演じ始めるその豹変ぶり。 カイルは思わず「うわっ、怖っ!」と身を引いた。その空気の読み方は、もはや人間のそれではない。
「あら、セラフィナ様。随分とお顔の色がよろしいようですわね。……わたくし、貴女を見ていてずっと不思議に思っていたんですの」
アリシアは、セラフィナの顔をじっと覗き込む。
「貴女、『この世界にない』知識を持っていますわね? この世界が、誰かの作った遊び場だとか……。でも、それにしては貴女の動き、あまりにも『不自然』ですわ」
アリシアの洞察が、セラフィナの仮面を剥ぎ取っていく。 セラフィナの背後には、彼女の意志とは無関係に動く「透明な糸」が見えるような気がした。彼女のぶりっ子な仕草も、狂乱した叫びも、すべては「そう動くように決められている」かのような違和感。
「貴女、自分が主役だと思い込んでおいでですけど……。本当は、ただの『誘導者』の役割を与えられているだけではないかしら?」
「何を……何を言ってるの!? わたくしは聖女よ! わたくしこそが、この世界の中心なのよぉぉぉ!」
セラフィナが叫んだ瞬間、王宮の空気が一変した。 アリシアの視界の中で、世界の輪郭がじわじわと溶け始める。
【理の外側へ】
不意に、音が消えた。 レオンハルト王子の罵声も、カイルのツッコミも、クロちゃんの咆哮さえも。 王宮の豪華な壁も、不潔な石畳も、すべてがインクを零したように白く塗りつぶされていく。
「あら。……ずいぶんと急なお片付けですわね」
アリシアは動じず、日傘を握り直す。 そこは、上下左右も定かではない、真っ白な虚無の空間だった。
アリシアは、これまでに繰り返されてきた世界の「脚本」の気配を感じ取っていた。 何十回、何百回と繰り返されてきた歴史。アリシア・フォン・アステリアが悪役として死に、聖女が勝利する。その安定した繰り返しを、今回のアリシアは「ガチャ」という理不尽な道具で、完膚なきまでに破壊してしまった。
その歪み……世界の綻びを修正するために、主が姿を現そうとしていた。
『――不愉快だ。実に不愉快だぞ、アリシア・フォン・アステリア』
空から降ってきたのは、人の感情を機械的に削ぎ落としたような、冷徹な響き。 それはジェネシスとも違う、この世界そのものを管理する「意志」の叫びだった。
『私が描いた完璧な脚本。君はそれを、その不潔な「道具」で汚し、あまつさえ支配者の地位を奪おうとしている。予定にない存在め……』
「不作法ですわね、顔も見せずに人の庭を汚すなんて」
アリシアは空を見上げ、不敵に微笑んだ。
【異空間の対峙】
真っ白な空間の中で、アリシアとセラフィナだけが対峙していた。 セラフィナはもはや人間としての形を保てず、黒い霧のようなものに全身を侵食されている。
「助けて……神様、助けて! あいつを、あのバグ令嬢を消してよ!」
セラフィナの叫びに呼応するように、白い空間が激しく波打った。
『よろしい。君がこれ以上、私の世界を乱し続けるというのなら……。こちらも相応の対応をさせてもらおう』
『君を、この世界の「存在しない歴史」ごと消去する。これ以上、私の脚本を汚すことは許さない。……さようなら、ゴミ箱へ行くのは君の方だ』
アリシアを包む白い光が、耐え難いほどの熱を持って膨れ上がる。 だが、アリシアは慌てず、手元のジェネシスを優雅に操作した。
「ふふ。……面白いですわね。わたくしを掃除しようだなんて、百年早くてよ?」
アリシアの指が、最後の「ガチャ」のボタンへと伸ばされた。
「わたくしの『楽園』を汚した代償……命を以てお支払いいただくことになりますわ」
アリシアの宣戦布告と共に、白い世界が砕け散る。 ついに始まった、世界の主との直接対決。
アビスの令嬢は、世界の理さえも「お掃除」するために、その瞳を七色に輝かせた。




