第27話:幻獣降臨:神域の龍と再演される業火
【不動の業火】
白亜の壁が熱に歪み、美しい庭園の緑が一瞬で黒い炭へと変わっていく。 魔海侯フォルネウルが消滅し、立ち込めていた湿り気が霧散した直後、アビスを支配したのは絶望的な「熱」だった。
炎のカーテンを割り、音もなく歩み寄る一つの影。 四魔貴族、魔炎長アウナス。 その身に纏う鎧は、それ自体が燃え盛る恒星のように激しく発光し、彼が踏みしめる石畳は瞬時にドロドロの溶岩へと姿を変える。彼は一歩も動かず、ただそこに佇んでいる。それだけで周囲の酸素は奪い尽くされ、大気は不吉な揺らめきを帯びていた。
「我が脳裏に響くは、この地の息吹を絶てとの声。……抗う小人どもよ、その勇猛さだけは褒めて遣わそう」
アウナスの声は、巨大な鐘を打ち鳴らしたかのように、アビスの岩壁を震わせた。 その威圧感は、先ほど戦ったアラケスやビューネルをも上回る。武人としての静かな風格。それは、圧倒的な強者が弱者に対して向ける、冷徹なまでの敬意であった。
「この地を焼き、世界の理を正すのが我が天命。……死を以て、その罪を清めるが良い」
彼が指先をわずかに動かす。それだけで、爆炎の奔流が死神の鎌となって、疲れ果てた一行へと襲いかかった。
【極限の絶望】
「……くっ、身体が……動かねぇ……ッ!」
カイルは震える手で剣の柄を握りしめていた。 全身をみなぎらせていたエナジードリンク『レッドカウ』の効力はとうに切れ、今は凄まじい疲労感と動悸が彼を苛んでいる。視界はバキバキに充血し、喉を焼くような渇きが意識を遠のかせる。 隣では、レオナードもまた満身創痍の身体を剣で支えていた。
「……これほどの、熱量か。もはや剣を振るうことすら、世界の理が拒んでいるようだ」
防護服の補助機能も、アウナスの放つ熱圧によって回路が焼け、沈黙している。 そしてルルもまた、極限だった。 無理やり魔力を絞り出そうとした反動で、その白い唇からは鮮血が滴っている。彼女の銀髪は魔力の枯渇によって光を失い、焦点の定まらない瞳がアウナスの影を追う。
「演算が……不能になりましたです。世界そのものが、あのお方を拒絶していることになりましたです……」
どんなに道具を駆使し、どんなに技を磨いても届かない「絶対的な壁」。 アウナスが放つ火炎の槍が、ゆっくりと、しかし逃れようのない軌道を描いて、膝をつくカイルたちへと迫る。それは、この世のあらゆる防御を無効化する、破滅の焔槍。
「あぁ……ここまで、か……」
カイルが静かに目を閉じた、その時だった。
【令嬢、戦場に立つ】
爆炎が彼らを呑み込む寸前、その場に不釣り合いなほど優雅な「靴音」が響いた。 コツ、コツと、硬い石畳を叩く一定のリズム。
「……あら。皆様、ずいぶんと無様な姿を見せておいでですのね。わたくしの騎士が、あのような不潔な火遊びに後れを取るなんて、教育が足りなくてよ」
炎の槍がカイルの鼻先に届く直前、目に見えない「透明な障壁」に衝突し、塵のように弾け散った。
「お、お嬢様……ッ!?」
カイルが目を見開くと、そこにはいつもの豪華なドレスを纏い、片手に優雅な日傘を差したアリシアが立っていた。 彼女の周囲だけは、アウナスの業火がまるで彼女を避けるように左右へと分かれていく。アリシアは一歩、また一歩と、炎の支配者である魔貴族へと歩み寄る。
「貴方がアウナス様ですの? わたくしの庭園をこれほど汚して……掃除の手間を増やすなんて、本当に不作法極まりないお方」
「……何者だ。我が業火の中を、事も無げに歩く小娘よ」
アウナスの瞳に、初めて警戒の色が宿る。アリシアは日傘を閉じ、手元のジェネシスを軽やかに操作した。
「わたくし? わたくしはただの令嬢。……そして、この楽園の支配者ですわ。さあ、不潔なお客様。そろそろ、お引き取りいただく時間ですわよ」
アリシアの背後に、巨大な、そして神々しいまでの魔力の渦が巻き起こる。
【神龍王の顕現】
「クロちゃん。お掃除のお手伝いをお願いしますわ」
アリシアが優雅にその名を呼ぶ。 カイルやレオナードが「え、今、クロちゃんって言った?」と目を丸くする中、空間そのものが悲鳴を上げて引き裂かれた。
地鳴り。いや、世界の底が抜けるような轟音。 アリシアの足元から現れたのは、これまでの魔族とは次元を異にする、漆黒の巨躯だった。
「――グルゥァァァァァァッ!!」
咆哮一閃。その音圧だけで、周囲を包んでいた残りのデーモンの軍勢が文字通り「消滅」した。 そこにいたのは、アリシアの前ではいつも子犬のように甘えていた漆黒の幻獣。だが、今この場に顕現したのは、神話の時代にのみ語られる世界の破壊者――神域の龍バハムート。
鱗の一枚一枚が夜の闇よりも深く、その眼光は金色の雷を宿している。アウナスが驚愕に立ち尽くす。
「馬鹿な……!? 神域の龍だと……? 何故、このような場所、このような小娘の呼び声に従う……ッ!」
「クロちゃん、あの不潔な火を消して差し上げて」
アリシアの命令を受け、バハムート……クロちゃんの口内に、極彩色の光が凝縮されていく。 空気が凍りつき、熱に支配されていた世界が、より根源的な「死」の予感に震えた。
「――メガフレア」
放たれたのは、光の奔流。 それは単なる炎でも魔法でもない。アウナスという存在そのものを存在ごと焼き尽くす、新魔界の咆哮。 ドォォォォォォォォン……ッ!!
深紫の閃光がアビスを真っ白に染め上げた。アウナスの不動の鎧も、誇り高き業火も、その一撃の前では無力。 灰も残さず、四魔貴族の最強の一角は、存在ごとこの世界から消去された。
【鏡の向こうの聖女】
一方、その頃。王都オーレリアの王宮最奥。 かつての豪華な装飾は影を潜め、薄暗い部屋にはセラフィナだけが見える無数の「光り輝く盤面」が浮かび上がっていた。
「嘘……嘘よ、嘘よ嘘よ嘘よ!!」
セラフィナは、髪を振り乱しながら、狂ったようにその盤面を叩いていた。
「なんでアウナスが負けるの!? バハムートなんて、このシナリオには存在しない! ズルよ、あんなのチートじゃない……ッ!」
盤面には真っ赤なエラーメッセージが踊る。世界のシステムが崩壊の叫びを上げている。 だが、セラフィナの背後から、不気味な声が響いた。
『――再試行を承認。世界の定義を再構築します』
彼女の瞳からは輝きが消え、天から伸びる細い光の糸が、彼女の意思を無視して指先を動かしている。それは、もはや人間としての感情を持たない、何者かの操り人形。
盤面の中心に、不自然な黄金の印が浮かび上がる。セラフィナは、自分のものではない力によって、その印を力任せに叩きつけた。
「死ね……。死になさい。アリシア……。」
【不浄なる再誕】
アビスの底。 メガフレアによって完全に消滅したはずのアウナスの跡地に、異変が起きた。
真っ白な灰さえも残っていないはずの虚空から、不気味な黒い煤が渦を巻き始めたのだ。
「……何ですの? 今の不快な揺らぎは」
アリシアが初めて、美しく整った眉をひそめる。 煤は瞬く間に積み重なり、再びあの紅蓮の鎧を形成していく。だが、何かが決定的に違っていた。
再誕したアウナスからは、先ほどまでの武人としての威厳や風格が、一切消え失せていた。 言葉を失い、ただ全てを焼き尽くすためだけに存在する無機質な炎の塊。 まるで、意思を剥奪された「災害」そのものが人の形をしているかのような、禍々しいプレッシャー。
「……魔人イフリート、のようですわね。不潔だわ」
アウナスの背後に、見たこともないほど巨大な魔力の穴が開き、そこから世界の理を無視した「不具合」の炎が溢れ出す。
「……皆様。どうやら本当のお掃除は、これからになるようですわ」
アリシアの冷徹な声が響く。 復活したアウナスが、ただ破壊を命じられた人形として、その手を掲げた。 世界の物語が、音を立てて崩壊していく。




