第25話:騎士の矜持と、限界を超える。
【絶望の流入】
勝利の美酒、その弾ける炭酸の心地よい余韻は、突如として訪れた「世界の終わり」を予感させる地鳴りによって無残に踏み潰された。 アビスの深淵から噴き出した黒い霧は、意思を持つ粘液のように広がり、楽園の美しい白亜の壁を不気味な墨色に汚していく。その霧の中から現れたのは、もはや「魔物」という言葉では形容しきれない異形――上級魔族、デーモン。
その巨躯は三メートルを超え、盛り上がった黒紫色の筋肉は鋼鉄以上の硬度を誇る。頭上には、天を呪うように捻じれ曲がった巨大な二本角。背中からは、無数の触手が蠢くような、不気味な有機質の翼が絶え間なくどす黒い魔力を放ち続けていた。
「なっ……なんだよ、こいつら……。今までのお掃除とは、放ってる威圧感の桁が違う……ッ!」
防護服の補助機能で辛うじて立っているカイルの足が、ガチガチと音を立てて震える。彼の視線の先で、デーモンの一体が、ただの挨拶とばかりにその巨大な爪を振るった。 空気が爆ぜる音が響いた次の瞬間、外敵から安全に守ってきたはずの強固な外壁が、まるで乾燥した紙細工のように粉々に打ち砕かれた。
「総員、盾を構えろ! 防護服の出力を最大に上げろ! 一歩も引くなッ!」
レオナードの激が飛ぶ。だが、デーモンたちはその醜悪な顔に嘲笑を浮かべ、空中に巨大な魔力の渦を形成し始めた。彼らに、もどかしい詠唱など必要ない。ただ破壊を望むだけで、世界がその通りに書き換えられていく。
「氷がすべてを凍てつかせましたです……ブリザラ」 「炎が塵すら残さないことになりましたです……ファイラ」
ルルが戦況を報告する声と同時に、極寒の吹雪と紅蓮の火柱が交差して騎士たちを襲う。 アリシアが与えた最新の防護服は、確かに物理的な衝撃には無敵の防御力を誇っていた。だが、デーモンが放つのはそれを凌駕する属性魔法。それは物理的な装甲を透明な壁のようにすり抜け、内側の肉体を直接焼き、凍てつかせ、神経を汚染する。
「ぎゃああああああああっ!」 「防げない! 守りの壁を、魔法が通り抜けてくる……ッ!」
一撃ごとに、精鋭騎士たちが人形のように吹き飛ばされる。 防護服の警報音が戦場に鳴り響き、赤く点滅する警告灯が絶望を加速させる。氷の槍が地面を穿ち、次の瞬間には雷鳴が天から降り注ぎ、楽園の美しい景観を無慈悲に破壊していく。
その光景を、アリシアは豪華な居室の特等席から、冷ややかに、しかし鋭く見つめていた。
【レオナードの「覚醒」とレッドカウ】
「……下がっていろ、お前たち。これ以上、お嬢様の楽園を汚させるわけにはいかん」
パニックに陥る騎士たちの背後から、重厚な軍靴の音が石畳を叩いた。レオナードだ。その右手に握られているのは、先ほどアリシアから授かった一缶の飲料『レッドカウ』。 しかも大缶。死の霧が立ち込める戦場において、その赤い牛が描かれたアルミ缶は、あまりにも場違いで、そして奇妙な救済の象徴に見えた。
「お嬢様。授かったこの技術……そして、この地に蓄えられた新たなる力。その真髄、今こそ示させていただきます」
レオナードは迷いなくプルタブを引き、中身を胃の腑へ流し込んだ。 瞬間。 ドクン――ッ!!
戦場を支配していた破壊音さえも一瞬でかき消すような、巨大な心臓の鼓動。 レオナードの黄金の瞳が、命の炎を燃やすかのように激しく明滅し、彼の毛穴からは過剰なエネルギーが白い蒸気となって噴き出した。背後には、レッドカウの成分が魔力と反応し、光り輝く半透明の「翼」の幻影が立ち上る。
「……なるほど。これが、お嬢様の仰る『翼を授かる』という感覚か。身体が、軽い……いや、もはや質量を感じぬほどだ」
レッドカウによる強烈な覚醒。それは身体能力を強引に十倍へと引き上げる、肉体への暴力的なブースト。 レオナードの視界から、すべての雑音が消えた。 デーモンが放つ魔法の弾道、空中を舞う瓦礫の軌道。そのすべてが、まるで粘度の高い液体の中を動いているかのように、極めて緩やかに、そして鮮明に描き出される。
デーモンが、その硬質な爪をレオナードの脳天へ振り下ろす。だが、その一撃が届くよりも早く、レオナードの黒い大剣が、真空の断層を描いて走った。
「なっ……見え、な……っ!?」カイルが驚愕する。
デーモンの巨体が、瞬きする間に四分五裂し、どす黒い魔力を噴き出して消滅する。 一歩、踏み込む。 それだけでレオナードの姿は閃光となり、次の瞬間には背後のデーモンの脳天を叩き割っていた。
「う、うそだろ……。あのレオナードさんが、あんな……人間じゃないみたいな動きをしてる……」
カイルが呆然と呟く。防護服のパワーアシストとエナジードリンクによる覚醒。その二つが重なり、レオナードは一人の騎士でありながら、一個の「天災」へと化していた。
だが、その一騎当千の奮闘を、さらなる「絶望の熱」が塗り潰す。 アビスの底から、すべてを灰へと変える劫火が噴き出した。
【魔戦士公アラケス降臨】
ズゥゥゥゥン……ッ!!
アビスの底が、そのあまりの重圧に耐えかねて悲鳴を上げた。 頑強な石畳がドロドロの溶岩へと姿を変え、霧の奥から現れたのは、炎を纏う不気味な鎧を身に宿した、山のごとき巨漢。二頭の魔獣を無理やり融合させたような、おぞましい騎獣に跨るその威容――四魔貴族、魔戦士公アラケス。
彼が掲げる爆炎の槍は、ただそこに存在するだけで周囲の酸素を燃やし尽くし、騎士たちは呼吸することすら困難な真空の状態に陥る。
「……ほう。この時代に、これほどの牙を持つ者がいようとはな」
アラケスの声は、大気を震わせる地鳴りそのものだった。彼が騎獣を一段進めるごとに、楽園の美しい建物が熱波だけで歪み、崩れ落ちていく。
「不肖の騎士、レオナード。……不作法な者よ。ここから先は、アリシア様の楽園だ。土足で踏み入ることは、この俺が許さん」
「良い。ならばその矜持ごと、灰に還してくれるわッ!」
アラケスの騎獣が爆発的な速度で突進する。炎の槍が空気を焼き、レオナードを襲う。 ギィィィィィィィン!! 大剣と槍がぶつかり合うたびに、凄まじい火花が散り、衝撃波が周囲のデーモンたちさえも吹き飛ばす。
「これほどまでの……熱量かッ!」
レッドカウの力をもってしても、アラケスの暴力的な「破壊」の前では、防御を維持するのが精一杯だった。レオナードの足元が、熱で溶けた石畳にめり込んでいく。さらにアラケスは、槍の石突でレオナードの胸元を突き飛ばし、凄まじい衝撃と共に彼を白亜の壁へと叩きつけた。
「ぐふっ……!」
レオナードの口から鮮血が漏れる。覚醒状態であっても、四魔貴族という「世界の理」そのもののような強大さには及ばないのか。膝を突き、肩で息をするレオナード。アラケスが死を告げる槍を高く掲げる。
「終わりだ。勇猛なる人間よ」
【アリシアの激励と、ルルの後方支援】
絶体絶命の瞬間。レオナードの耳元の通信機から、凛とした、そしてすべてを見透かしたような優雅な声が響いた。
「あら。先生、そんなところで何をしておいでですの? わたくしの騎士が、あのような不潔なゴミを前に土を舐めるなんて、少しばかり不作法が過ぎましてよ」
アリシアの声だった。
「お、お嬢様……」
「立ちなさい、先生。貴方の剣は、そんなところで折れるほど安っぽい買い物ではなかったはずですわ。……わたくしが認めた騎士として、最高の『お掃除』を完遂してご覧なさい」
その言葉は、冷たい叱咤でありながら、レオナードの心にこれ以上ないほどの熱を灯した。
「……はは、相変わらず厳しいお方だ。だが……仰る通りだッ!」
レオナードが再び立ち上がる。その瞬間、彼の周囲に無数の光り輝く文字列が舞い上がった。
「レオナード様、お掃除を効率良く行うのが筆頭メイドの務めになりましたです。アリシア様から、さらなる支援を適用することになりましたなのです」
ルルの淡々とした、しかし力強い声。彼女は居室で石版を高速で操作し、アリシアが引いたばかりの『SSR:バフ魔法セット』を遠隔発動させていた。
『――支援魔法、多重同時適用。攻撃強化:ブレイブ! 物理障壁:プロテス! 加速限界:ヘイスガ!! ……全ての条件が整いましたです。掃討を開始してくださいなのです』
レオナードの全身を、青い光の幾何学模様が包み込む。それは超未来のUIが魔法と融合した、異質な奇跡。レオナードの腕には爆発的な力が宿り、身体のダメージはリジェネの光によって急速に癒やされていく。
「……感謝する、ルル。そしてお嬢様。……騎士のの意地、とくとご覧あれッ!」
その瞬間、レオナードの腕から「重み」が消えた。彼は、アラケスが放った槍の突進を、たった片手で軽々と跳ね除けたのだ。その様子を見ていたカイルが、思わず絶叫する。
「う、動けてる……!? あんな化け物の槍を、片手で……!? お嬢様の道具、マジでデタラメだぁぁぁ!」
【最大奥義「無月散水」】
「……行くぞ、魔の貴族よ。これが俺の、騎士の矜持だ」
レオナードが黒い大剣を、深く、静かに中段に構えた。 周囲で逆巻いていたアラケスの爆炎が、彼の纏う冷徹な闘気によって「圧し殺された」かのように凪いでいく。 訪れる、一瞬の静寂。 それは、世界が息を止めたかのような、凍てついた時間。
「奥義――『無月散水』」
レオナードの姿が、かき消えた。 いや、消えたのではない。あまりの速さに、因果の認識が追いついていないのだ。 直後、アラケスの放っていた絶対的な爆炎のカーテンが、一点の抵抗もなく、ただの霧のように両断された。
第一撃。光のない夜を断つ「無月」。 レオナードの剣がアラケスの槍を根元から斬り飛ばし、その無防備な胸元を通り抜ける。
第二撃。空中に散るアラケスの火花と、引き裂かれた魔力の残滓が、降り注ぐ血のようにきらめく「散水」。 レオナードは着地することなく空中で身を翻し、さらに三連、四連と、神速の斬撃をアラケスの全身に刻み込んでいく。
「……ぐ、ぅっ!? この、人間が……これほどの、武を、理を越える一撃を放つというのか……ッ!!」
アラケスの不壊の鎧が粉々に砕け散り、その胸元から魔力の奔流が噴き出す。 最後の一閃。レオナードは大剣を鮮やかに一閃させ、鞘に収める。その動作と同時に、アラケスの巨体が内側から爆発するように霧散していった。
【強者の邂逅と別れ】
アラケスは、憤怒しなかった。 むしろ、崩れ去る自身の半身を見つめ、満足げな、武人としての笑みさえ浮かべていた。
「……見事だ、人間。まさかこの時代に、我が槍を凌ぎ、我が鎧を断つ者がいようとは。久方ぶりに、魂が震える戦を知ったぞ……」
四魔貴族の一角、魔戦士公アラケスは、紅蓮の粉塵となってアビスの闇へと消えていった。
レオナードはその場にガクリと膝を突く。レッドカウの暴走的なブーストと、ルルの多重支援、そして限界を超えた奥義の行使。その反動は凄まじく、彼の防護服からは過負荷を告げる煙が立ち昇っていた。
「……ふぅ。なんとか、お掃除は終わったようだな……」
「レオナードさん! すげぇ、マジですげぇよ! あんた、本当に人間かよ!」
駆け寄るカイル。レオナードは力なく笑い、居室の方角へ向かって静かに頭を下げた。
豪華な居室で、モニター越しにその結末を見ていたアリシアは、優雅に紅茶を啜りながら、美しく口角を上げた。
「あら。……さすが先生。わたくしが与えた道具を、ここまで美しく、そして『わたくしらしく』使いこなすなんて。不作法なゴミ捨ても、これほど華やかであれば、最高級の余興になりますわね」
アリシアの声には、師への揺るぎない賞賛と、支配者としての悦びが込められていた。 しかし、その傍らのジェネシスには、不気味な警告灯が再び点滅し始めている。
『――警告。四魔貴族、残り三体。世界の定義崩壊速度がさらに加速。……次の絶望が来ます』
アラケスを倒してもなお、アビスを覆う闇は晴れない。 むしろ、より深く、冷たく。世界という物語そのものが悲鳴を上げながら、アリシアたちをさらなる絶望へと誘おうとしていた。




