第11話:カイルとアリシアの日常、楽園の運営と新たな歯車
【カイルの苦悩とアリシアの発作】
アビス・ダンジョンの最深部、今や「楽園」と呼ばれるようになったその場所の朝は、実に騒がしく、そして贅沢な音で始まる。
ウィィィン、という規則正しい音を立てて動くのは、先日ガチャから排出されたという『全自動食器洗い機』だ。伝説の霊水が噴射され、王宮の至宝に勝るとも劣らない磁器の皿が、人の手を借りずともピカピカに磨き上げられていく。
「……はぁ。まさか、俺の人生で食器を洗う苦労から解放される日が来るとはな」
カイルは、洗面台の鏡に向かい、自分の顔を見た。アビスに追放された直後の、泥を啜り死を覚悟したような表情はもうどこにもない。適温に保たれた空気と、栄養満点の食事。ここでの生活は、王都の貴族ですら羨むような快適さに満ちている。
だが、カイルには拭いきれない不安があった。 それは、この楽園の主であるアリシアの、留まるところを知らない「蒐集癖」――もとい、ガチャへの病的なまでの執着である。
応接室へ向かうと、そこには既にアリシアがいた。彼女は窓のないはずの壁に映し出された、庭園の風景を眺めながら、不満げに眉をひそめていた。
「おはようございます、お嬢様。今日も清々しいお顔で……って、何かお気に召さないことでも?」
カイルの問いに、アリシアは扇で窓――の形をしたモニター――を指し示した。
「カイル、おはよう。……ええ、少しばかり、この部屋の雰囲気に不協和音が混じっている気がしますの。見てご覧なさい、このカーテンの刺繍。わたくしの今の気分に比べると、少々……彩りがやかましすぎますわ」
「……は? それ、王宮の最高級品よりずっと上品なやつですよ? こないだの十連で出たばかりの」
「ええ、そうですわね。ですが、昨今のわたくしが求めているのは、もっとこう……静謐でありながらも、この楽園の重厚さを物語るような織り地。……そう、ジェネシスの中に、まだ見ぬ『至高の調度品』が眠っている予感がいたしますの」
アリシアの瞳が、ギラリと妖しい光を放つ。 カイルは背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。これは、彼女が「ガチャを回したい」という欲求を、高貴な正当性で包み隠す時の前兆だ。
「お嬢様、待ってください! 今のままでも十分すぎるほど豪華です。これ以上、この地の魔力の蓄えを、たかが布切れ一枚のために使うのは……!」
「たかが布切れ? カイル、貴方は美学というものをどこに置いてきましたの? わたくしが支配するこの楽園を整えることは、この地の品格を守ることと同義ですわ。……ふふ。大丈夫ですわ、カイル。わたくしの勘が、次の一撃で運命の糸が手に入ると囁いていますのよ」
アリシアはジェネシスの画面に細い指を這わせる。 カイルの必死の制止など、熱狂の渦に飲まれた彼女の耳には、心地よい微風程度にしか届いていなかった。
【ドワーフのギムリ、魔法の炉と驚愕の技術】
一方、楽園の西側に新設された工房エリアでは、ドワーフの鍛冶師ギムリが、自身の常識を根底から覆す光景に打ち震えていた。
「……信じられん。こいつは、本当に人間が作っていいもんなのか……?」
ギムリが畏怖の眼差しを向けているのは、アリシアが「はい、これ使いなさい」と雑に与えてきた機械――『SSR:魔導高周波誘導炉』である。
ドワーフの伝統的な炉であれば、火の精霊の機嫌を伺い、何日もかけて温度を上げ、自らの汗と経験で鉄の純度を見極める。それが鍛冶師の誇りであり、人生そのものだった。 だが、この魔法の炉はどうだ。スイッチ一つで、一瞬のうちに岩をも溶かす高温に達し、しかもその温度は一分の狂いもなく一定に保たれる。
「あのアリシア様というお方は……神様の親戚か何かか?」
ギムリは傍らに置かれた、見たこともないほど精密な目盛りが付いた工具を手に取った。 かつてアビスの闇に呑まれ、飢えと魔物に怯えて死を待っていた自分。その手を引き、清潔な衣服と、神の庭のような住まいを与えてくれたのはアリシアだった。
彼女は言った。「貴方の腕、この楽園をより強固にするために、わたくしが買い取って差し上げますわ」と。
ギムリは炉の熱を感じながら、静かに鉄を打ち始めた。 ドワーフの伝統技術と、アリシアからもたらされた未知の超技術の融合。 生まれるのは、外の世界の英雄ですら手にできない至宝の数々だ。
「アリシア様……。あんたのためなら、この命、何度だって炉の中に投げ込んでやるぜ。この地は、俺たちにとっての本当の楽園だ」
ギムリの瞳には、かつての絶望は消え、技術者としての、そして臣下としての深い忠誠が宿っていた。
【ハーフエルフのサリア、楽園の物流管理】
工房から少し離れた場所、静寂と冷気に満ちた「備蓄庫」では、元商人のハーフエルフ、サリアがリストを片手に震えていた。
「……ポテトチップス、残り二十袋。高級紅茶、三十箱。……ああ、神様。私は、何という恐ろしい場所の管理を任されてしまったのでしょうか……」
サリアの視線の先には、アリシアが「わたくしのおやつですわ」と言って投げ込んできた袋が山積みになっている。 商人の直感が、彼女の脳内で警報を鳴らし続けていた。 この楽園に山積みされている、カラフルな袋に詰められた乾燥した芋。その一袋を外の世界へ持ち出せば、一国の主要都市が一つ買えるだけの価値がある。
保存性は完璧、栄養価は高く、何よりその味は――中毒的なまでに美味。 アリシアが日常の欠片のように扱っているアイテムの一つひとつが、王国の財政をたやすく傾けるだけの力を持っていた。
「サリアさん、アリシア様が新しいお菓子を欲しがっていますの」
背後から、ひょっこりとルルが姿を現した。銀色の耳をピコピコと動かし、尻尾を機嫌よさそうに揺らしている。
「あ、ルルちゃん……。また、この『禁断の芋』を運ぶのね?」
「禁断……? よく分からないけれど、とても美味しいものですわ! アリシア様も、これを食べている時は、とても幸せそうなお顔をなさるんですのよ」
ルルは無邪気に笑いながら、サリアから差し出されたポテトチップスの袋を受け取った。 サリアの手は、その重みに――ではなく、その価値の重みに耐えきれず、ガタガタと震えていた。
「はい、畏まりました……。こちら、お嬢様へ。……(ああ、この一袋で王国が一つ買えるのに……。それをサクサクと食べてしまうなんて、あのお方は本当に何者なの……?)」
サリアは、去りゆくルルの背中を見送りながら、目眩を堪えるように壁に手を突いた。 清潔な床、美味しい食事、そして命の安全。 それを得る代償として、自分はこの楽園の主という、とてつもない化け物(女神)の隣にいるのだと、改めて戦慄していた。
【鏡に映る毒と、遠い軍靴の音】
夕刻。楽園の中枢にあるアリシアの私室。 彼女は、空中に浮かび上がる漆黒の石版――ジェネシスのモニターを、退屈そうに眺めていた。
そこに映し出されているのは、王都からアビスへと続く一本道。 先日放った小型の偵察機が、リアルタイムで映像を送ってきているのだ。 画面の端には、蟻の行列のようにうごめく軍勢の姿があった。王国が誇る魔導師団。その数は数百、放つ威圧感は並の騎士団を凌駕する。
「……あら。随分と、歩みが遅いですわね。あの方たちは、わたくしがお茶を何杯飲めばこの地に到着するのかしら。移動だけで疲れてしまっては、わたくしへの挨拶もままならないのではありませんこと?」
アリシアは優雅に欠伸を漏らし、ルルが淹れたばかりの紅茶を一口啜った。
「お嬢様、流石に危機感持ってくださいよ。相手は王国最強の魔導部隊です。一斉に大規模な破壊魔法を撃ち込まれたら、流石のこの地も……」
カイルの突っ込みに、アリシアはふふ、と喉を鳴らして笑った。 その瞳には、恐怖も不安も、塵ほども存在しない。
「カイル、貴方は心配性すぎますわ。不潔な汚れが近づいているのなら、より強力な洗浄剤を用意すればいいだけのこと。……そうね、せっかくお客様が来るのですもの。もう少し、この楽園を広げて、最高に豪華な『舞台』でお迎えして差し上げなくては失礼だわ」
アリシアの指が、ジェネシスの画面に触れる。 彼女の脳内では既に、新たな施設の配置と、魔導師団をどう「処理」するかの完璧な手順が組み上がっていた。
「ジェネシス。溜まった蓄えを解放しなさい。……来なさい、わたくしの楽園をさらなる高みへと導く、新たなる輝きよ」
アリシアが不敵に笑いながらボタンに指をかけた瞬間、部屋中を虹色の光が焼き尽くした。 遠くで響く王国軍の軍靴の音。 それを、新たなガチャの回転音が、あざ笑うようにかき消していった。




