第10話:ルルの日常、神様の隣で働くということ
深い眠りから意識が浮上する瞬間、ルルが最初に感じるのは、頬を撫でる空気の「優しさ」だった。
かつてアビスの泥の中で丸まって寝ていた頃、目覚めと共にあったのは、肺を焼くような不潔な瘴気と、肌を刺す凍えるような湿り気だった。いつ背後から魔物に喉笛を食い破られるか分からない恐怖。それが、ルルにとっての「朝」だった。
けれど、今は違う。 ルルを包み込んでいるのは、ガチャから排出されたというシルクのシーツだ。滑らかで、まるで春の雲を纏っているかのように軽い。そして、部屋の隅に鎮座した魔導気候管理システムが、一年で最も過ごしやすい季節の温度を常に保ってくれている。
ふわり、と頭上の白い光が強さを増した。 それは太陽の光ではない。アリシアが言うところの、えるいーでぃ、という名の魔法の光だ。それは外の世界のいかなる光よりも清廉で、影を作らず、眠りについたルルの体を優しく揺り起こしてくれる。
ルルは尻尾を一度大きく振り、ベッドから降りた。 向かうのは、寝室に併設された洗面所だ。そこには白く輝く陶器の洗面台があり、銀色の蛇口を軽く捻るだけで、伝説の霊水――アンブロシアがいくらでも溢れ出してくる。
ルルは手で水を掬い、顔を洗った。 冷たく、けれど命の輝きに満ちた水が、眠気を一掃していく。 ふと、彼女は鏡に映った自分の姿を見た。濡れた銀色の髪が、照明を反射して白銀に輝いている。
その時だった。 髪の隙間に、一筋の細い光が混じった。それは毛髪ではなく、極細の銀色の導線のような輝きだ。鏡の中で、その光はルルの魔力に呼応するように、微かな青い脈動を刻んでいる。
同時に、彼女の金色のオッドアイが小さく揺れた。 鏡越しに見る照明の波長を、彼女の脳――あるいはそれ以外の何かが、瞬時に解析し始める。瞳孔が幾何学的な模様を描き、空間の歪みや光の屈折率を数値化していくが、ルル本人はそれに気づく様子もなく、ただ満足げに微笑んだ。
「今日も、アリシア様はとても綺麗な光をくださっていますのね」
ルルにとって、この身に起こる微かな違和感よりも、アリシアが整えてくれたこの楽園の清潔さの方が、ずっと重要なことだった。
身支度を終えたルルは、銀のバケツと布を手に、楽園の廊下へと出た。 そこには既に、先客がいた。
「おはようございます、クリーナー様」
ルルが深々と頭を下げた相手は、宙に浮遊する白銀の球体――防衛・掃除ドロイドであった。 ウィィィン、という規則正しい無機質な駆動音を立てながら、ドロイドは廊下の隅々までワックスをかけていく。
ルルにとって、この機械は単なる道具ではない。 アリシアの命を受け、この聖域を清めるために遣わされた、高位の神使のような存在だった。 ドロイドのセンサーが赤く点滅し、ルルに一瞥をくれる。
「クリーナー様、そちらは私が仕上げますわ。あちらの角に、微かな汚れの気配が隠れていますの」
ルルが指差したのは、ドロイドの高性能な視覚素子ですら「異常なし」と判断した、微細な空間の歪みだった。塵の集積というよりも、そこだけが周囲の清浄な空気から取り残されたかのような、極小の澱み。
ルルは重力を感じさせないしなやかな動きで、壁を蹴った。 ふわり、と高く舞い上がる。彼女の跳躍は、獣人の身体能力という言葉では説明がつかないほど正確で、滞空時間はあまりに長い。 高い天井の装飾をサッと布で撫でると、彼女は音もなく着地した。石畳を叩く硬い音一つ立てず、まるで最初からそこにいたかのように、自然に。
掃除は、ルルにとっての祈りだった。 アリシアがガチャという名の奇跡で広げていくこの楽園を、一分一秒でも長く、美しく保つこと。それが自分に与えられた唯一無二の役割であると、彼女は信じて疑わなかった。
掃除を終える頃には、楽園の食堂から香ばしい香りが漂ってきた。 ルルが急いで向かうと、そこには既にアリシアが座っていた。
「おはようございます、アリシア様! 今日も一段と、お美しいですわ!」
ルルは膝を突き、心からの崇拝を込めて挨拶した。 アリシアは完璧に整えられたドレスを揺らし、扇で口元を隠しながら、優雅に頷いた。
「おはよう、ルル。今日もこの地を清めてくれて感謝しますわ。さあ、座りなさい。朝食の時間ですわよ」
食卓に並んでいるのは、外の世界の王族ですら口にできない贅沢な品々だった。 ガチャで手に入れた全自動ベーカリーが焼き上げた、白く柔らかなパン。外側は驚くほどカリッとしているのに、中はもちもちとしていて、噛みしめるたびに小麦の甘みが広がる。 そこに濃厚なバターを塗り、挽き立ての豆で淹れた珈琲の香りを吸い込む。
「アリシア様……。わたくしのような者が、毎日こんなに美味しいものを頂いて、罰が当たりませんか?」
ルルは、恐る恐るパンを千切りながら尋ねた。あまりの幸福に、時折、すべてが夢なのではないかと怖くなるのだ。 アリシアは琥珀色の液体を口に運ぶと、静かに微笑んだ。
「罰など当たりませんわ。わたくしの支配する場所で、わたくしの用意したものを食す。それはこの地の住人としての権利であり、務めですのよ。貴方が健やかで、美しくこの地を守ること。それが、わたくしの蓄えを正しく使うということなのですから」
アリシアの言葉は、常に力強く、そして慈悲深かった。 ルルはその横顔を、本物の女神を見つめるかのように瞳に焼き付けた。
穏やかな朝食の時間が過ぎ、アリシアが二杯目の珈琲を求めた時だった。 ルルの耳が、ピクリと跳ね上がった。
それは、人間のカイルや、ましてや魔法の感知に優れたアリシアにも聞こえないはずの、微かな、しかし暴力的な振動だった。 数キロ先、アビスの岩壁を伝って響いてくる、無数の足音。 ルルの脳内に備わった生体観測ユニットが、その振動を解析し、一つの結論を導き出す。
鉄の鎧、軍靴、そして魔導杖が地面を叩く一定の周期。 それは個人の足音ではない。統制された、巨大な軍勢の接近だった。
ルルの表情が、一瞬だけ無機質な戦士のものへと変わった。 けれど、彼女はすぐにそれを引っ込め、不安げにアリシアへと顔を向けた。
「アリシア様……。なんだか、遠くで嫌な音がしますの。この楽園を汚すような、不潔な足音がたくさん聞こえてきますわ」
ルルの報告に、アリシアは珈琲を置いた。 彼女は驚くことも、怯えることもなかった。ただ、これからやってくるであろう「汚れ」をどう処理するか、その算段を立てるように、不敵な笑みを浮かべた。
「あら。お掃除の道具は、いくらあっても足りませんわね」
アリシアのその言葉を聞いた瞬間、ルルは安心したように尻尾を振った。 たとえどのような不浄が押し寄せようとも、この神様の隣にいる限り、自分たちの楽園が汚されることなど万に一つもあり得ない。
ルルは再びバケツを手に取り、クリーナー様と共に、さらなる磨き上げを開始した。 汚れが来るというのなら、迎え撃つ場所を、もっとピカピカにしておかなければならないから。




