第七十話:ヤンデレ王子の逆襲と、王女の覚醒
王立魔導研究所の最深部は、今や地獄の様相を呈していた。
ゼノスが遠隔で起動させた禁忌の魔石「深淵の涙」が、研究所の心臓部である魔導炉と共鳴し、制御不能なエネルギーを撒き散らしている。赤黒い雷光が走り、壁面の魔導回路が一本、また一本と焼き切れていく。
「……あ、あ……」
カミラはその場に崩れ落ち、震える手で自分の掌を見つめていた。そこには、役目を終えてひび割れた黒い魔石の残骸がある。自分の意志ではなかった。だが、引き金を引いたのは自分だ。
「カミラ様、伏せて! 天井が落ちるわ!」
ルナの叫び声と同時に、轟音を立てて巨大な瓦礫が降り注ぐ。ルナは咄嗟に無属性魔導の障壁を展開したが、暴走する魔導炉から放たれる衝撃波は凄まじく、彼女の細い体は防戦一方で限界を迎えようとしていた。
その時、研究所の厚い隔壁が、外側から凄まじい物理的な力によって粉砕された。
「――僕のルナから、離れろ」
砂塵の中から現れたのは、銀髪を怒りで逆立たせ、深紅の瞳を血走らせたアレスだった。
その姿は、高潔な王子などではない。愛する者を傷つけられた、剥き出しの狂気そのものだ。
アレスは一瞬でルナの元へ転移すると、彼女の体を背後から抱きしめ、自らの巨大な魔力で暴走するエネルギーを無理やり押さえつけた。アレスの背後には、禍々しいまでの黒い翼のような魔力の奔流が渦巻いている。
「アレス! 来てくれたのね……!」
「ルナ、怪我はないか? どこを触られた? ……いや、今はいい。あそこに隠れているネズミを片付けるのが先だ」
アレスの視線の先――崩れた柱の影から、転移魔法で現れたゼノスが冷笑を浮かべて立っていた。
「流石だな、アレス王子。この規模の暴走を力技でねじ伏せるとは。だが、その女は我が国へもらう。彼女の知恵は、君のような独占欲の塊が持っておくには惜しすぎる宝だ」
「……お前か。ルナを、物のように語る下衆は」
アレスの声は、逆に静まり返った。それは、彼が完全に「理性の外」へ踏み出した合図だった。
アレスが片手を掲げると、研究所内の重力が一変した。ゼノスの周囲の空間が歪み、床が陥没する。
「なっ……無詠唱で空間干渉だと!?」
「お前は、僕がどれほどこの女を愛しているか、その『深淵』を理解していない。ルナが少しでも怯えたなら、お前の国ごと、その国民の記憶ごと、すべてを消去してようやく僕の気は済むんだ」
アレスが指を弾くと、ゼノスの四肢を不可視の魔力の鎖が拘束し、無慈悲に引き絞った。ゼノスの悲鳴が響き渡る。軍事大国の皇太子として、当代随一の魔導士を自称していたゼノスだったが、ヤンデレ王子としての狂気と執着を魔力に変えたアレスの前では、赤子も同然だった。
「兄様……! もうやめて……!」
カミラが泣きながら叫んだ。だが、アレスの冷徹な瞳はカミラをも捉える。
「……王女。君も同罪だ。ルナが君を信じようとしたその心を裏切った。万死に値する」
アレスの手元に、真っ黒な光の槍が形成される。それは対象の存在そのものを抹消する禁忌魔法。アレスの本能は、ルナを傷つける可能性のあるすべてを、この世から消し去れと命じていた。
「待って、アレス! カミラ様を殺しちゃダメ!」
ルナがアレスの腕にしがみついた。
「彼女は……最後に私を逃がそうとしたの。お兄様に利用されていた被害者なのよ。お願い、私を信じて。これ以上、誰も死なせたくないの!」
「……ルナ。君は甘すぎる。この女は毒蛇だと言ったはずだ」
「それでもよ! 復讐のために力を使ったら、アレスがアレスじゃなくなっちゃう。お願い……私を見て。私はここにいるわ。無事よ」
ルナはアレスの頬を両手で包み、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
狂気に染まりかけていたアレスの瞳に、わずかな正気が戻る。彼は数秒の葛藤の末、忌々しげに舌打ちをして魔力を収束させた。
「……君の頼みでなければ、今この瞬間に、この帝国の兄妹を灰にしていたところだ」
アレスはゼノスをゴミのように床へ叩きつけると、ルナを横抱きにして力強く抱き寄せた。
「ゼノス皇太子。命だけは助けてやる。……だが、今すぐこの国から失せろ。二度とルナの視界に入るな。……次はない。次は、お前の国の都を、僕が自ら火の海にしてやる」
ゼノスは屈辱に顔を歪めながら、血を吐き、這うようにして転移石を起動させた。カミラは、ルナに一瞬だけ深く頭を下げ、兄を追うように光の中に消えていった。
静寂が戻った研究所の瓦礫の中で、アレスはルナを離そうとしなかった。
「ルナ……。怖い思いをさせてすまない。……もう、公務なんていい。明日からは、誰の目も届かない場所で、僕だけに囲まれて暮らそう。いいだろう?」
「……それはそれで困るんだけど、今は……そうね、抱きしめていて」
ルナはアレスの胸に顔を預け、安堵の息をついた。
ヤンデレの緩和は、あくまで「平和な時」限定。一度ルナに牙を剥く者が現れれば、アレスはかつての、あるいはそれ以上の冷酷無双な王女へと戻るのだ。
第二章の嵐は、一旦の終息を迎えた。しかし、帝国との確執は決定的なものとなり、そしてルナに心を救われたカミラの「執着」もまた、新たな形へと変わりつつあった。




