第六十九話:毒の密約と、揺らぐ忠誠
王宮の夜は、静寂の中に鋭い刃を隠し持っていた。
エストリア帝国の滞在施設である離宮。カミラ王女は、兄であるゼノス皇太子の前に跪いていた。その背中には、窓から差し込む月光が冷たく突き刺さっている。
「カミラ、進捗はどうだ。あの王妃の懐に入り込み、技術の核心を盗み出す準備は整ったか?」
ゼノスの声は、血の通った人間のものとは思えないほど低く、平坦だった。彼は卓上の地図を指先でなぞりながら、妹の反応を待っている。
「……ええ。少しずつですが、彼女の信頼は得ています。ですが兄様、アレス王子が常に目を光らせていて、核心に触れるのは容易ではありません」
カミラは、知らず知らずのうちにルナを庇うような嘘を吐いていた。核心にはすでに触れかけていた。ルナが惜しみなく見せてくれた数式の断片が、今も脳裏に焼き付いている。だが、それを兄に渡すことに、心臓を泥で汚されるような「抵抗」を感じていたのだ。
ゼノスはなぞっていた指を止め、ゆっくりとカミラを見下ろした。その氷晶のような青い瞳が、妹の嘘を瞬時に見透かす。
「嘘はつくな、カミラ。お前はあの女の、くだらない善意に当てられたか? 帝国で育ったお前が、そんな甘い毒に屈するとはな」
ゼノスは懐から、禍々しい紫の光を放つ黒い魔石「深淵の涙」を取り出した。
「明日、王立研究所の視察がある。ルナ・ノートをそこに誘い出せ。この石には、周囲の魔力を強制的に暴走させる禁忌の術式が封じられている。これを研究所の核となる魔導炉の近くで発動させれば、大規模な爆発と混乱が起きる。……その隙に、王妃を拉致する。アレス王子の目が届かぬ一瞬を作れば、それで十分だ」
「魔力暴走……!? そんなことをすれば、研究所の職員たちが、下手をすれば街の人々まで巻き添えになりますわ!」
「大義のためだ。彼女の知恵を独占できれば、我が国は大陸を統べる。その辺の命など、そのための礎に過ぎん」
ゼノスはカミラの喉元を冷たい指先で押し上げ、逃げ場を奪うように囁いた。
「これが最後だ、カミラ。お前が道具として機能しないのなら、お前もその爆発の『破片』にするまでだ」
ゼノスが去った後、カミラは暗闇の中で震え続けた。
自分は、あんなに美しく、そしてこの国の未来を背負って笑うあの人を、この手で地獄に突き落とさなければならないのか。掌の中にある魔石は、まるでカミラの良心を焼き尽くそうとするかのように、不気味な熱を持っていた。
翌朝。王宮の空気は、アレスの不機嫌を反映したかのように張り詰めていた。
アレスは隣国との貿易協定の最終調印という、どうしても外せない公務を抱えていた。
「ルナ。今日は僕の目の届かない場所に、一歩も出るなと言ったはずだ」
アレスはルナの腰を強く抱き寄せ、その首筋に吸い付くように顔を埋めた。緩和されたとはいえ、彼の独占欲は「物理的な距離」に対して極めて敏感だった。
「アレス、大丈夫よ。カミラ様と研究所を少し見学するだけ。護衛もついているし、お昼には戻るわ」
「……あの王女の瞳が気に入らない。君を見つめる際、尊敬と、それを裏切ろうとする罪悪感が混じり合っている。毒蛇は毒蛇だ、ルナ」
「アレスは心配しすぎよ。カミラ様も、きっと魔導を学びたいだけだわ」
ルナが困ったように笑い、アレスの頬に優しく触れる。アレスはその手を取り、指先まで食むように口づけを落とした。
「……一時間おきに魔導通信を入れること。少しでも異常があれば、僕はすべてを放り出して駆けつける。……約束だぞ、ルナ」
アレスは嫌な予感を抱えたまま、会議室へと向かった。
一方、カミラは震える足取りでルナを研究所へと誘っていた。
「ルナ様……。あちらに、最新の魔導炉があるのでしょう? ぜひ、その稼働を見せていただきたいわ」
カミラの声はかすれていた。ルナはそんな彼女の変化を、緊張しているだけだと思い込み、明るく頷いた。
「もちろんです! 実際に動いているところを見れば、理論がどう現実に干渉するかがよく分かりますよ」
研究所の最深部。巨大なクリスタルが鎮座する魔導炉の前で、ルナは誇らしげに装置の解説を始めた。その輝きは、まるでルナの理想そのもののように清らかだった。
(今……今これを置けば、お兄様は満足する。私は助かる。……でも、お姉様……いえ、ルナ様は――)
カミラがドレスのポケットから、黒い魔石を取り出した瞬間。
離宮で監視を続けていたゼノスが、遠隔で呪具を強制起動させた。
「――お前が置かぬのなら、私が火をつけるだけだ」
「なっ……!?」
カミラの掌で、魔石が爆発的な輝きを放った。黒い衝撃波が研究所内を駆け抜け、安定していた魔導炉の光が、ドス黒い赤へと変色していく。
「カミラ様、何をしたの!?」
ルナの叫び声と同時に、天井が崩落を始めた。
その頃、会議室でペンを走らせていたアレスは、守護の指輪の強烈な熱に椅子から立ち上がった。
「ルナ……っ!」
アレスは窓を突き破り、魔力を爆発させて研究所へと向かった。彼の背後には、愛する者を傷つけた者への、地獄よりも深い怒りが渦巻いていた。




