第六十八話:仮面の下の葛藤
茶会での完敗から数日。カミラ王女は、兄ゼノス皇太子からの「王妃の懐に入り、魔導技術の核心を探れ」という非情な密命を帯び、再びルナの執務室を訪れていた。
(……失敗すれば、私は捨てられる。やるしかないのよ)
カミラは震える拳をドレスの中で握り締め、執務室の扉を叩いた。 中に入ると、ルナは山のような書類に囲まれながらも、驚くほど軽やかな手つきでペンを走らせていた。
「あら、カミラ様。またお会いできて嬉しいわ。今日はどのようなご用件かしら?」
ルナは顔を上げ、眩しいほどの笑顔を向けた。その屈託のなさに、カミラは一瞬、胸が締め付けられるような罪悪感を覚える。だが、すぐに冷徹な「帝国の王女」を演じ直した。
「……先日の技術のお話、もっと深く伺いたいと思ったの。我が国でも魔導の効率化は急務ですわ。……よろしければ、教えていただけないかしら」
それは、兄から命じられた通りの「偽りの歩み寄り」だった。しかし、ルナは疑う素振りも見せず、パッと顔を輝かせた。
「もちろんです! 私の技術が隣国の方のお役に立てるなら、こんなに嬉しいことはありません。……さあ、こちらへ」
ルナはカミラを隣に座らせ、惜しげもなく最新の数式が並んだ資料を広げた。 カミラは、その無防備なまでの善意に戸惑った。情報を盗もうとしている相手に対し、ここまで開かれた態度を取る人間を、彼女は知らなかった。
数式を読み解くうちに、カミラは再びルナの圧倒的な知性に飲み込まれていく。 「盗む」という目的を忘れ、純粋に「この人はどこまで先を見ているのか」という驚嘆が心を支配し始めたその時――。
バタン、と重厚な扉が開かれた。
「――ルナ。公務はもういいだろう。休憩の時間だ」
低い、しかし絶対的な威圧感を伴う声。アレスだった。 彼は最初からいたわけではなく、ルナの仕事が一段落する時間を見計らって、彼女を「回収」しに来たのだ。アレスの瞳は、ルナの隣に座るカミラを視界に入れた瞬間、氷のように冷たく細められた。
「……エストリアの王女。まだ我が国の王妃に付きまとっているのか。教育係が必要なほど、自国の教養が足りないのか?」
「アレス、そんな言い方しちゃダメよ。カミラ様は、魔導の勉強をしたいと仰ってくださったの」
ルナが宥めるが、アレスはカミラとルナの間に割り込むようにして立ち、ルナの肩を強く抱き寄せた。
「勉強、か。……君の瞳の奥にある『色』が、純粋な向学心だけならいいんだが。ルナ、この女は毒蛇だ。あまり近づきすぎると、僕がその牙を抜かなければならなくなる」
アレスの言葉は、カミラの裏の目的を見透かしているかのような鋭さがあった。 カミラはアレスの放つ殺気と、その美貌の裏に潜む狂気的な独占欲に気圧され、立ち上がるのがやっとだった。
「……し、失礼いたしますわ。お邪魔だったようですから」
逃げるように部屋を出ていくカミラの背中を、アレスは無表情に見送った。そして、扉が閉まった瞬間に、ルナを椅子ごと自分の方へ向かせ、その首筋に顔を埋めた。
「ルナ……。あんな女に、君の貴重な時間を割く必要はない。君の知恵も、君の笑顔も、僕だけのものであるはずだ」
「アレス、またヤンデレが出てるわよ。彼女はただ、変わりたいと思っているだけかもしれないのに」
「変わりたいだと? ……フン、甘いな。だが、もし彼女が君を傷つける予兆を見せたら、僕は帝国との戦争も辞さないよ」
アレスの愛は、結婚してもなお、その鋭い刃を周囲に向け続けている。 一方、回廊を走るカミラは、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。アレスへの恐怖と、ルナが自分に迷いなく知恵を共有してくれたことへの衝撃。
(お兄様の言う通りに、あの人を裏切らなければならないの……?)
仮面の下で揺れるカミラの心。ゼノスの計画が水面下で進む中、アレスの過保護とルナの知恵が、カミラの運命を少しずつ変えていく。




