第六十四話:過保護すぎる王子の朝と、義実家との距離感
新居での生活が始まって数日。ルナは、アレスの「甘やかし」が想定を遥かに超えていることに、嬉しい悲鳴を上げていた。
朝、ルナが目を覚ますと、すぐ目の前にはアレスの整いすぎた顔がある。彼はルナが起きる数時間前から、こうして彼女の寝顔を眺めているのが日課となっていた。
「おはよう、ルナ。……今日も世界で一番可愛いよ」
アレスはそう囁くと、ルナが何かを言う前に、その唇を優しく塞いだ。目覚めの口づけは、一度では終わらない。二度、三度と、深く、甘く、ルナが完全に覚醒するまで繰り返される。
「ア、アレス……もう、起きなきゃ。顔を洗いたいわ」
「洗面台まで僕が運ぶよ。君の足に、不必要な負担はかけたくない」
「たった数歩じゃない」
笑いながら断ろうとするルナだったが、アレスは当然のように彼女を横抱き(お姫様抱っこ)にした。彼はルナを床に降ろすことすら惜しむように、そのまま洗面所へ、そして着替えの場所へと運び、まるで着せ替え人形を扱うように、丁寧にドレスを着せていく。
「……アレス、自分でもできるわよ?」
「いいんだ。君に触れる口実を、一つでも多く作らせてくれ」
アレスの瞳は本気だった。彼はルナの髪を梳かし、耳元に自分とお揃いの魔導石のピアスを付け終えると、満足げに彼女を抱きしめた。
そんな二人の甘い時間を破るように、玄関のベルが鳴った。隣の家に越してきた、ルナの両親である。
「おーい、ルナ! アレスちゃん! 朝ごはんのお裾分けを持ってきたぞ!」
父親の元気な声が聞こえると、アレスの表情が一瞬で「嫉妬深い独占欲の塊」へと切り替わった。
「……またお義父さんか。昨日の昼も、一昨日の夕方も来たじゃないか」
「いいじゃない、お父さんたちも寂しいのよ」
アレスはぶつぶつと文句を言いながらも、ルナを背後に隠すようにして玄関へ向かった。扉を開けると、そこには焼きたてのパンを持った両親が立っている。
「おはようございます。……お父さん、お母さん。毎日ありがとうございます。ですが、ルナは今、僕と大切な時間を過ごしていたところなんです」
アレスは丁寧な言葉遣いを保ちつつも、その背後には「これ以上僕たちの聖域に入らないでくれ」という無言の圧力が渦巻いていた。しかし、長年アレスを育てた両親は、そんな王子の威圧感などどこ吹く風である。
「まあまあ、アレス。そう堅いこと言わずに。ルナ、あんたの好きなベリーのジャムも作ったわよ」
「お母さん! ありがとう、嬉しいわ」
ルナがひょいとアレスの脇から顔を出すと、アレスは敗北感に打ちひしがれたような顔をした。彼はルナが両親と楽しげに話す姿を、壁の隅から「捨てられた仔犬」のような、あるいは「獲物を狙う鷹」のような複雑な眼差しで見守っている。
結局、朝食は四人で囲むことになった。アレスはルナの隣を死守し、彼女がパンを口に運ぶたびに、口元の汚れを銀のナプキンで丁寧に拭い、飲み物がなくなれば即座に補充する。
「アレス殿下……いや、アレス。君、ちょっとやりすぎじゃないか? ルナが甘やかされすぎて、ダメな人間になっちまうよ」
父親が呆れたように言うと、アレスはルナの腰を引き寄せ、誇らしげに言い放った。
「それでいい。ルナが僕なしでは何もできない体になるなら、それは僕にとって最高の幸せだ。僕が彼女の足になり、手になり、思考になればいい。……お父さん、僕の愛を邪魔しないでほしい」
その台詞は、かつての「監禁」を連想させたが、今のルナはそれを笑って受け流せる強さを持っていた。
「ふふ、大丈夫よ、お父さん。これでも、研究室に入れば私はシャキッとするんだから」
「……その研究室も、僕が同伴するのが条件だけどね」
アレスはそう付け加え、ルナの肩に頭を乗せた。 甘やかすことで、ルナのすべてを奪い、自分だけのものにしようとする王子の「甘い檻」。家族ですら完全に割って入ることのできない、二人の濃密な新婚生活は、まだ始まったばかりであった。
一章完結です




