第五十六話:氷解の兆しと、塔の中の再会
ルナに「心が死ぬ」と告げられた夜、アレスは自室の暗闇の中で、自身の内面と激しく格闘していた。支配することでしか愛を繋ぎ止められないと思っていた彼にとって、ルナの「アレス」という呼び声は、唯一自分を一人の人間として繋ぎ止めてくれる鎖だったのだと気づき始めていた。
翌朝、アレスは沈黙の塔を訪れた。その手には、ルナが求めていた魔導学の写本が抱えられていた。
塔の最上階の扉を開けると、窓際の椅子に座るルナの背中が見えた。アレスは静かに歩み寄り、机に本を置いた。
「ルナ。これを持ってきた。君が以前、興味があると言っていた写本だ。退屈しのぎにでも使ってくれ」
ルナは驚いたように本を見つめ、それからアレスの顔を真っ直ぐに見つめた。
「アレス。どうして…」
呼び捨てにされた瞬間、アレスの胸に微かな痛みが走った。それは不快感ではなく、彼女との距離がまだ完全に途切れていないことへの、切ないほどの安堵感だった。
「君の心が死ぬのを見ているのは、耐えられないからだ。……僕は、君に笑ってほしいんだ。たとえその笑顔が、僕以外の理由であっても、君が無表情でいるよりはいい」
アレスは自嘲気味に笑い、ルナの前に膝をついた。彼はルナの手をそっと取り、自分の頬に寄せた。
「許してくれとは言わない。だが、僕は君を失いたくない。君が信じてほしいと言った言葉を、これからは僕も信じる努力をしたいんだ。……怖いけれど、信じてみたい」
ルナは、アレスの瞳に宿る弱さを初めて見た気がした。完璧な王子としての仮面が剥がれ、一人の不安定な青年として自分を求めている。ルナは静かに息を吐き、アレスの瞳を見つめ返した。
「それなら、アレス。私に、クリス様と会わせて。彼の容態を私の目で確かめたいの。それが叶えば、私は逃げたりしない。あなたの隣に居続けるって、改めて約束するから」
アレスの指先が、ぴくりと跳ねた。クリスの名を呼ばれるだけで、胸の奥が焼けるような嫉妬に包まれる。しかし、彼は深く目を閉じ、その暗い感情を必死に抑え込んだ。
「……わかった。ただし、条件がある。面会には僕も同席する。時間は三十分だけだ。それ以上は、僕の心が保てそうにないから」
アレスの譲歩に、ルナの瞳に久方ぶりの光が宿った。彼女は小さく頷き、アレスの手を強く握り返した。
「ありがとう、アレス」
一時間後、ルナはアレスに連れられ、塔の最下層へと降りた。重厚な扉が開くと、そこには清潔な寝台に横たわるクリスの姿があった。アレスが命じた最高の治療により、彼の顔色には生気が戻っていた。
「クリス様……!」
ルナが駆け寄ろうとした瞬間、アレスが背後から彼女の腰を腕で囲い、自分の方へと引き寄せた。それは、クリスに対する「彼女は僕のものだ」という無言の誇示であり、アレスなりの限界の表現だった。
クリスはゆっくりと目を開けた。彼の視界に、涙を浮かべたルナと、苦渋の表情で彼女を抱きしめるアレスの姿が映る。
「ルナ……そして、殿下。ご足労をおかけして……」
クリスの声は弱々しかったが、しっかりとした知性が宿っていた。アレスは、ルナを離さないまま、クリスに向けて静かに告げた。
「公爵令息。君の命を救ったのは、ルナの献身だ。そして、君をここに生かしておくのは、僕の……僕なりの妥協だ。感謝しろとは言わないが、彼女の気持ちを無駄にするような真似はするな」
アレスの言葉には、まだ刺々しい響きがあった。しかし、ルナの肩を抱くその手からは、以前のような冷酷な支配欲ではなく、彼女を失いたくないという必死な祈りのような温もりが伝わってきた。
ルナはアレスの腕の中に収まりながら、クリスが無事であることに安堵し、そして隣にいるアレスの心の変化を肌で感じていた。沈黙の塔という名の檻は、今、対話という新しい鍵によって、少しずつその形を変えようとしていた。




