第五十五話:沈黙の塔の対峙と、歪んだ愛の綻び
沈黙の塔での生活が始まってから、数日が経過した。最高位の治療を受けたルナの体は、かつての健康を取り戻していたが、その瞳からは生気が失われていた。窓の外に見える王都の景色は、彼女にとって手の届かない幻影のように遠く感じられた。
アレスは、公務以外の時間のすべてをこの塔で過ごしていた。彼はルナに最高の食事を与え、豪華なドレスを贈り、まるで宝物を愛でるように彼女の髪を撫で続けた。しかし、ルナが自分に微笑みかけることはなく、ただ人形のようにアレスの愛を受け入れるだけだった。
「ルナ、なぜ笑わない。君が望んだ自由はないが、ここには君が必要なすべてがある。僕の愛も、地位も、平穏も」
アレスは、ルナの頬を指先でなぞりながら問いかけた。彼の声には、絶対的な支配者としての響きと、それとは裏腹な、満たされない渇きが混じっていた。ルナを物理的に閉じ込めることには成功したが、彼女の心までを完全に手中に収めることができていないという焦燥が、彼を苛んでいたのだ。
ルナは、ゆっくりと視線をアレスに向けた。その瞳は、怒りでも拒絶でもなく、深い悲しみに満ちていた。
「アレス様。あなたは私を連れ戻し、塔に閉じ込めました。クリス様を人質にし、私の自由を奪いました。それで、あなたの心は満たされましたか?」
ルナの静かな問いに、アレスは言葉を詰まらせた。
「…君が裏切らなければ、こんなことをする必要はなかった」
「私は裏切っていません。私は、あなたの王権を盤石にするために、無属性魔導の知識が必要だと考えたのです。魔力の不安定なこの国を救うことが、未来の王であるあなたを救うことになると信じていました。クリス様を救ったのも、彼の知識がこの国に、そしてあなたに必要だからです。すべては、あなたのために行ったことでした」
ルナの言葉は、嘘偽りのない真実としてアレスの胸を突いた。彼はルナがクリスという男個人に惹かれ、自分を捨てたのだと信じ込もうとしていた。そうでなければ、自分の沸き立つような嫉妬心を正当化できなかったからだ。
ルナは続けた。
「今のあなたは、私が愛した王子様ではありません。ただ、恐怖で人を縛り付ける孤独な支配者です。私をここに閉じ込め続け、クリス様を苦しめ続ければ、いつか私の心は完全に死んでしまうでしょう。あなたが抱きしめているのは、私の心の抜け殻だけになります」
アレスの指が、かすかに震えた。ルナの「心が死ぬ」という言葉は、彼にとって何よりも恐ろしい宣告だった。彼はルナを愛するあまり、彼女を破壊しようとしている自分に、初めて直面した。
アレスはルナから手を引き、立ち上がった。彼の背中には、これまでの傲慢な自信ではなく、抑えきれない動揺が漂っていた。
「黙れ。僕は間違っていない。君を失うくらいなら、抜け殻でもいい。僕の側にいればいいんだ」
そう言い放ちながらも、アレスの足取りは重かった。彼は塔を去る際、最下層にいるクリスの処遇について、部下に新たな指示を出した。
「公爵令息の治療を継続しろ。食事も、彼が望むものを用意させろ。決して、死なせるな」
それは、アレスの狂気がわずかに後退し、ルナの言葉が彼の凍てついた心を溶かし始めた証拠だった。彼はまだルナを解放するつもりはなかったが、彼女の心が死ぬことを防ぐために、自分の行動を修正せざるを得なくなっていた。
沈黙の塔に、変化の風が吹き始めていた。ルナの命懸けの訴えが、アレスの極限を超えたヤンデレの殻に、小さな、しかし決定的な亀裂を入れたのである。




