第五十四話:狂愛の治療と、沈黙の塔への連行
最初に戻ってきたのは、冷たさだった。
石造りの床から伝わる冷気が、意識の奥をゆっくりと引き上げていく。
ルナは微かに眉をひそめ、重たいまぶたを持ち上げた。
視界に映ったのは、天井に刻まれた王家紋章。
見覚えがある。――王宮、地下拘束区画。
(……最悪の場所ね)
身体を起こそうとして、手首に走る鈍い痛みに息を呑んだ。
魔力封印の拘束具。銀と黒曜石で編まれたそれは、彼女の魔力回路を完全に遮断している。
「目が覚めたか」
低く、感情を削ぎ落とした声。
ルナが顔を向けると、檻の外、数歩離れた位置にアレスが立っていた。
軍服姿の彼は微動だにせず、まるで展示物を見るかのような視線を向けている。
「……クリス様は?」
掠れた声で問う。
それだけで、アレスの口元がわずかに歪んだ。
「生きている。少なくとも、今は」
その言葉に、ルナの胸がきしむように痛んだ。
「安心しただろう?」
アレスはゆっくりと檻に近づく。
冷たい蒼眼が、逃げ場を塞ぐようにルナを捉えた。
「君は、自分の命を投げ出してまで、あの男を守った。
その“選択”の意味を、理解しているかい?」
「……理解してるわ」
ルナは俯き、それでも視線を逸らさなかった。
「私は、あなたを信じてほしかった。
あなたなら、話せば分かってくれると……」
「違う」
即座に遮る声。
アレスの感情は凪いでいる。だからこそ、底知れない。
「君は僕を試した。
そして、失敗した」
アレスは檻の扉に手をかけ、鍵を外す。
金属音が静寂を切り裂いた。
「ルナ。君は勘違いしている」
彼は檻の中に入り、ルナの顎を掴んで顔を上げさせた。
「僕は、君に“理解”など求めていない。
君が必要なのは、選択肢ではなく――従属だ」
ルナの瞳が揺れる。
「愛とは、自由を与えることじゃない。
愛とは、奪い、縛り、他を排除することだ」
そのまま、彼女を抱き寄せる。
抵抗しようにも、魔力も力も残っていない。
「君が守ろうとした男は、ここにいる限り生き続ける。
だがそれは、君が“良い子”でいる間だけだ」
囁きは、甘く、残酷だった。
「君が僕だけを見るようになるまで、
彼は――生きた証拠として存在し続ける」
ルナの喉から、声にならない息が漏れる。
(……檻に入れられたのは、私だけじゃない)
その瞬間、遠くの回廊から微かな金属音が響いた。
研究区画側――クリスが収容されている方向だ。
アレスは満足げに微笑んだ。
「さあ、始めよう。
君が“本当の意味で”僕のものになるまでの、矯正を」
ルナは唇を噛みしめ、静かに目を閉じた。
(……負けない)
この狂気の王子の檻の中で、
彼女はまだ、折れていなかった。




