第五十一話:追跡者の吐息と、冷気の境界線
ルナは、王都の北側に連なる山脈の険しい獣道を、夜通し歩き続けた。夜が明け、太陽が昇っても、深い森の中は薄暗く、寒さは増すばかりだった。彼女の体は、慣れない長時間の移動と極度の緊張で限界に達していた。特に、アレスの監視を欺くために魔力制御を「安寧」の状態に保ち続けることが、ルナの精神を激しく消耗させていた。
(この山脈を越えれば、凍結地帯の入口だ。あと少し…もう少しで、クリス様の居場所へたどり着ける)
ルナは、時折立ち止まり、王宮から持ち出したわずかな保存食と水を口にした。彼女の耳は、常に後方からの追跡の音を警戒していた。アレスは、騎士団の精鋭と共に、必ず追ってきている。その確信は、ルナの魔力制御が完璧なゆえに、揺るがなかった。彼女のブレスレットはアレスに「安全」を報告しているが、ルナ自身は、アレスの静かな殺気が、風に乗って運ばれてくるのを感じていた。
山道の途中、ルナは魔力の微細な波長の変化を感知した。それは、彼女が意図的に魔力を希薄にした地点だった。もしアレスがこの道を選んだなら、彼はルナの魔力の痕跡を辿るために、この波長の変化を注意深く解析するだろう。
ルナは、凍結地帯に入った瞬間に、クリスの命を守るための結界を構築しなければならない。彼女がクリスと研究した無属性魔導の円環収束理論に基づき、冷気を遮断する結界を一気に展開する計画だ。そのためには、体力を温存し、魔力を最大限に集中させる必要がある。
ルナは、己の使命のために、疲労と恐怖を心の奥底に押し込め、再び険しい斜面を登り始めた。彼女の逃亡は、ただの自己解放ではなく、愛する推しへの「誤解を解く」ための、命懸けの戦いだった。
一方、アレス率いる追跡部隊は、ルナが選んだ山道の入口に到達していた。アレスは小型飛空艇から降り、地面に触れた。彼の周囲には、選りすぐりの騎士団精鋭たちが、静かに控えている。
アレスは目を閉じ、ルナの魔力の残滓を嗅ぎ分けるように、周囲の空気の波長を読み取った。
「やはり、ここだ。彼女は僕の予測通り、この最も困難なルートを選んだ」アレスの声は冷徹だった。「彼女は、僕が教えた地理知識を使い、僕の思考を読み取った。この山道は、騎馬部隊では追いつけない。彼女は、僕の追跡を遅らせるために、全知識を動員した」
アレスは、ルナの魔力の痕跡を辿るうち、ルナが意図的に魔力を消費し、周囲の自然魔力と混ぜ合わせた地点に気づいた。
「この魔力操作は…!」
アレスの顔に、怒りと興奮が入り混じった表情が浮かんだ。ルナがブレスレットを欺くためだけでなく、追跡を妨害するために高度な魔力操作を行っていた事実に、アレスの執着はさらに深まった。
「ルナ。君はどこまでも僕を試す。僕の目を逃れようと、その素晴らしい才能を僕以外の者のために使うのか」アレスは静かに、しかし深い怒りを込めてつぶやいた。
アレスは精鋭部隊に指示を出した。
「飛空艇は先行させ、凍結地帯の出口付近を封鎖しろ。彼女の目的地は、クリス・ド・イシュタールの流刑地だ。彼女は必ず、あの男を救い出すために無属性の結界を使う。その魔力反応を感知次第、僕に報告しろ。それ以外は、決して手出しをするな」
アレスは、騎士たちに追跡を任せず、彼自身がルナの残した魔力の痕跡を、一歩一歩、執拗に辿り始めた。彼は、ルナがクリスを救出する瞬間を、自分の目で見るつもりだった。そして、彼女が最も満足した瞬間、彼女を捕らえ、その心に残るクリスの痕跡を、永遠に消し去るつもりだった。
アレスの脳裏には、ルナを連れ戻した後の離れの塔での生活が、狂気的な妄想となって鮮明に描かれていた。
(ルナ。君を連れ戻したら、僕は二度と君から離れない。君の目は、僕だけを見つめる。君の才能は、僕の喜びのためだけに輝く。王位などどうでもいい。君という、僕だけの世界で、僕は永遠の愛を生きるのだ)
アレスの追跡は、もはや国の王子の任務ではなく、ルナという対象に対する、絶対的な独占者の狩りへと変貌していた。
ルナが山脈の尾根を越え、遠く凍結地帯の境界線に立ち、冷気が肌を刺すのを感じたその時、アレスの部隊は、ルナが山道に入ってからわずか数時間で、ルナとの距離を急速に詰めていた。二人の天才魔導士の、愛と狂気の追いかけっこは、極寒の地へと舞台を移そうとしていた。




