第五十話:凍てつく道行と、狂気の追跡開始
ルナは王宮の森を抜け、凍結地帯へと続く街道を、夜明け前の冷たい空気の中、全力で急いでいた。泥にまみれたローブは重く、王宮での監禁生活が奪った体力が、早くも悲鳴を上げ始めていた。しかし、クリスが送られた凍てつく地獄の光景が、ルナの脳裏に焼き付いて離れなかった。
(時間が惜しい。アレスが気づくのは、時間の問題だ。私の魔力制御は完璧でも、アレスの猜疑心は、その完璧ささえも疑うだろう)
ルナは、王宮で覚えた地理の知識を頼りに、主要な街道を避け、凍結地帯に最短で到達できる魔力濃度が希薄な山道を選んだ。この道は、追跡者が魔力探知を試みても効果が薄く、速度の遅い騎馬部隊では追いつけない。ルナは、アレスの思考パターンを逆手に取ったのだ。
ルナの左手首に嵌められた銀のブレスレットは、今も変わらず「安寧」の信号を送り続けている。これはアレスへの欺瞞であり、ルナの魔導士としての最高傑作だった。
(アレス。私はまだ、あなたを愛しています。だからこそ、あなたに私を信じさせるために、私はあなたを裏切らなければならない。クリス様を救い出し、あなたの王権を揺るがさずに戻る。それが、私に残された唯一の愛の証明だから)
ルナの心は、アレスへの報われない愛、そしてクリスへの罪悪感という、矛盾した二つの重荷を背負いながらも、前へ進み続けた。彼女は、王宮を出た後も、アレスという名の「檻」から、心の底では完全に自由になれたわけではなかった。
王宮では、私室でアレスが下した極秘命令により、異様な緊迫感が漂っていた。選ばれた騎士団の精鋭部隊が、音を立てずに王宮の裏手で招集されていた。アレスは、いつもの華美な王子服ではなく、黒を基調とした、細部に魔力増幅紋様が刻まれた動きやすい魔導騎士の装束を纏っていた。彼の腰には、王家の宝剣が提げられている。
アレスの瞳は、まるで遠い一点を見つめているかのように深く沈み、その表情には、ルナを失った痛みと、連れ戻すことへの狂気的な執着だけが燃え盛っていた。
「僕がいない間に、彼女はどれほどの距離を稼いだ?」アレスは警備主任に問いかけた。
「殿下、魔力探知では彼女の居場所は特定できません。しかし、彼女の魔力制御の特性から見て、山脈の希薄な魔力帯を選んだ可能性が高いかと」
「当然だ」アレスは冷たく言い放った。「彼女は僕が教えた知識を、僕を欺くために使った。無駄な探知は不要だ。僕が追跡する」
アレスは、ルナが脱出経路として使った地下水路の設計図を広げ、指先で正確な山脈の入口を指し示した。
「彼女の体力では、馬や馬車を使わなければ、この場所から先へは進めない。だが、彼女は馬車を選ばなかった。時間の短縮と、追跡の困難さを両立させる、最短の獣道だ。精鋭部隊は騎馬ではなく、魔力推進の小型飛空艇で先行しろ。僕は、彼女の魔力の残滓を辿る」
アレスは、ルナと自身の魔力が持つ高い同調性を利用する、最も原始的でありながら、最も確実な追跡方法を選んだ。ルナが意図的に魔力を制御し、ブレスレットを欺いていても、彼女の移動によって周囲の自然魔力に微細に残る痕跡は、アレスという、彼女を最も深く愛し、理解する者にしか辿れないものだった。
アレスは、自身の追跡の目的を警備主任に再確認させた。
「これは、国家の機密とする。彼女を連れ戻すことは、王国の存続よりも重要だ。彼女が逃げたという事実は、誰にも知られてはならない。僕とルナ、二人の愛の物語に、他者の介入は不要だ」
彼の狂気は、ルナを連れ戻したら、王位を継ぐための準備など全て中断し、離れの塔で二人きりで永遠に生きるという、究極的な独占欲に根ざしていた。
「行こう。僕の愛しいルナは、今頃、凍える道で迷子になっている。早く連れ戻し、僕の腕の中で、二度と離れないことを誓わせなければならない」
アレスは部隊を率いて、王都を静かに、しかし雷のような速度で出発した。彼の追跡は、もはや義務でも復讐でもなく、ルナの心を取り戻すための、冷酷で執拗な愛の証明だった。凍てつく大地を舞台に、支配者と被支配者であった二人の天才による、命懸けの追跡劇が幕を開けた。
鬼ごっこスタートです!




