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夜の仕立て屋

作者: つきや
掲載日:2025/11/08

【(1)】

 夜の帳が降りると、暖簾を外へ出す。

 この店は、夜にしか開かない。

 今日の注文は——ハンドバッグだったか。

 なめした「皮」を広げる。

 手に吸いつくような柔らかさで、指を押し返す弾力がある。

 傷一つない、上質な素材だ。

 定規をあて、線を引く。

 鋏を入れると、静まり返った工房に「ジョキ、ジョキ」とよく響く。

 切り口からは、ほのかに温い匂いが立ちのぼる。

 仮縫いをし、ミシンで仕上げに入る。

 ウィィィン——

 針が上下に跳ね、皮を打ち抜くたび、ダダダダダと震える。

 ときどき糸を切る霧バサミの音がパチンと混ざる。

 この夜の作業だけは、どうしても昼間ではできない。

 音も匂いも、街に紛れてしまうから。

 代々、我が家は仕立て屋として生計を立ててきた。

 みな、腕が良かった。

 だが、誰もこの仕事の本当の価値を理解しようとしない。

 弟子も取れず、気づけば私ひとりだ。

 ——ガラガラガラ。

 戸が開く。

 男が、重そうな布袋を床へ置いた。

「できてるか」

「ああ、もうすぐだ。今日は潔い手触りだ」

「なら、これも頼む。さっきの荷だ」

 袋はずしりと重い。

 中身を確かめなくても分かる。

 新しい“素材”の重さだ。

 玄関のベルが、チリンと鳴る。

 客は去った。

 ミシンを止め、針を抜く。

 綺麗なベージュのハンドバッグが一つ、仕上がった。

 しっとりとした光沢、細かい皺の模様。

 表面には、うっすらと小さな黒子の跡が残っている。

 ——この世にひとつしかない、完全なオーダーメイドだ。

 夜の御用は、どうぞいつでも。

 うちは「どんな皮」でも扱えます。


 ----------------------


【(2)】

 昼間の街は、騒がしいほど平和だ。

 子どもが走り、老人が縁側に座り、店には笑い声があふれている。

 だからこそ、わたしの仕事は昼にやる。

 ——人の顔を見るために。

 店先で依頼人が言った。

「新品みたいに、柔らかいバッグを。触った瞬間に分かるような、特別なものを」

 客はみな、同じように曖昧な言葉で注文する。

 だが、わたしには分かる。

 求めているのは、ただの革製品ではない。

「お任せください。手触りの良い素材を探します」

 そう言って頭を下げたとき、客はホッとした顔をした。

 わたしは依頼の数だけ、この街を歩く。

 革の匂いを嗅ぎ分けるのと同じように、わたしは“素材”を選ぶ。

 その日の街角に、ちょうど良い若者がいた。

 陽に灼けた肌、傷のない背中、よく笑う素直そうな性格。

 バッグにすれば、軽くて丈夫だろう。

「すみません、落とし物をしてますよ」

 声をかければ、人は簡単に振り向く。

 あとは静かな場所へ連れていくだけだ。

 仕事は慣れたものだ。

 取り扱いが少々乱暴でも、後で職人が綺麗に整えてくれる。

 日が落ちたころ、わたしは素材を袋に詰めて歩き出した。

 港の倉庫街は、夜になると風が強い。

 誰の声も届かない。

 袋の重みが腕に食い込む。

 やがて、小さな工房に辿り着く。

 看板も出ていない、古い建物だ。

 ガラガラガラ。

 戸を開けると、ミシンの音が止まった。

 仕立て屋は振り返りもせず、言う。

「今日のは?」

「柔らかいですよ。若いです」

 そう告げると、仕立て屋は満足そうに頷いた。

 床に袋を置き、前金を渡す。

 ここまで来れば、もうわたしの仕事はほとんど終わりだ。

「また、良い素材を頼む」

 仕立て屋の声は機械油のように低い。

 ミシンが再び動き出す。

 わたしは工房を出た。

 夜風が頬を撫でる。

 街の灯りを遠くに見ながら、次の依頼のことを考える。

 特別な財布、丈夫なベルト、しっとりした手袋。

 客の望みは様々だ。

 けれど——どれもちゃんと叶えてあげられる。

 この街には、良い“皮”がいくらでもある。



 ----------------------


【(3)】

 私たちの間では、ひそかな流行がある。

 ブランドでも、宝石でもない。

 いかに“特別な革製品”を持っているか——それだけが価値だ。

「まあ、見てちょうだい。今夜の新作よ」

 夫人がテーブルに置いたバッグは、光を吸い込むような滑らかな艶を放っていた。

 薄いベージュに、なめらかな手触り。

 どこに売っているのか尋ねる者は誰もいない。

 それが、こちらの作法だから。

「すてきねえ。まさか、そんなに柔らかいなんて」

 隣の紳士が、そっと指先で撫でる。

 皮の表面には、かすかに細い皺が走っている。

 けれど、牛でも豚でもない。

 この“均一で細かい”質感は、滅多に手に入らない。

「奥さん、どこで?」

「まあ、内緒ですわ。紹介制ですもの」

 みんな笑う。

 この集まりでは、名刺よりも革製品のほうが信用になる。

 誰もが最高の素材を手に入れようと躍起になっている。

 中には、決定的な“証”を残すものもいる。

 今日の会には、その一つがあった。

「見てください。この財布。模様がね、珍しいでしょう?」

 男は誇らしげに財布を開く。

 内部の薄皮に、小さな黒子の跡があった。

 それを見た瞬間、周囲の空気が変わる。

「まあ……! 本物ね」

 声を潜めた称賛が漏れる。

 誰も大声を出さない。

 ここでは、わかる者だけがわかればよい。

 欲望はゆっくり伝染する。

 仲間より上の品を持つこと——

 それが、彼らにとっての“勝利”なのだ。

「どなたに頼んだの?」

 夫人が問うと、男は意味深に笑った。

「紹介してくれる人がいるんですよ。

 客の望みに合う“皮”を用意してくれる方がね」

 ざわりと背筋を撫でるような沈黙。

 それが何の皮か、誰も口にしない。

 けれど、理解している。

 上質で、柔らかく、傷がなく、よく伸びる。

 それを手に入れるには——

 同じ街に、同じ数だけ“材料”が必要だ。

 夜会は静かに続き、シャンパンの泡がはじける音だけが響く。

 テーブルに並んだバッグも財布もベルトも、

 どれもこの世にひとつだけの「オーダーメイド」。

 そして誰もが、次の品を欲しがっている。

 自分より劣る革を身につけたくない。

 仲間より、良いものが欲しい。

 そのためなら、金でも、人でも、かまわない。

 ——この街には、まだまだ材料がいる。


 ----------------------


【(4)】

 この半年で、街では七件の失踪が報告された。

 共通点は、若いこと。手術や傷跡がないこと。行方が突然消えること。

 遺体も目撃証言もなく、ただ人が空気みたいに消えていく。

 刑事の藤崎は、それを偶然だとは思っていなかった。

 失踪者の家族は泣きながら話す。

「優しい子だったんです。誰かに恨まれるような性格じゃなくて……」

「遺書もなく、荷物も持ち出していない。

 何かに巻き込まれたとしか思えません」

 藤崎は相棒の鷹野とともに、街を歩き回った。

 手がかりは薄い。だが、ひとつだけ、共通して気になることがあった。

 失踪者全員が、最後に立ち寄ったであろう場所。

 古い倉庫街の一角。

 夜には人通りがなく、車移動なら誰にも見られない。

「ここで……消えてる」

 防犯カメラには、彼らが歩いてくる姿が映っている。

 倉庫の角を曲がる。

 ——そこで映像は途切れる。

 まるで、その先にカメラが存在しないように。

 藤崎は、倉庫街の店を一軒ずつあたった。

 だが、どの店も、営業中の気配は薄い。

 そして、ある夜。

 倉庫街を巡回していると、細い路地で荷物を運ぶ男を見かけた。

 袋は大きく、ずしりと重そうだ。

 生ゴミのような湿った匂いが漂った。

「すいません、そこの方——」

 声をかけると、男は振り向きもせず足を速めた。

 不自然だった。

 追いかけようと一歩踏み出した瞬間、鷹野が腕を掴んだ。

「藤崎、やめておけ」

「あいつ怪しい。荷物を——」

「やめておけ」

 鷹野の声はいつもより低かった。

 まるで何かを知っているような目をしていた。

 その翌日、急に捜査会議が開かれた。

 上層部の刑事が資料を抱えて現れる。

「失踪事件の件だが、捜査本部は解散する。これ以上の捜査は不要だ」

「不要? まだ七人もいなくなったままなんですよ!」

「自主的な失踪と判断された。以上だ」

 藤崎が机を叩くと、上司が静かに言った。

「もう手を引け。これ以上は危険だ」

 異論は許されない空気だった。

 捜査資料は回収され、失踪事件は“未解決”として葬られた。

 その日の帰り道、藤崎は倉庫街へ向かった。

 決まりを破ってでも確かめたかった。

 だが、倉庫の前には警備員が立ち、立入禁止のテープが張られていた。

「この先、一般立入禁止です」

「ここはただの倉庫街だろ」

「もう使われていません」

 無表情な警備員の後ろで、古い木戸が少し開いていた。

 中からは、機械の低い唸り音が聞こえた。

 まるでミシンが動いているように。

 藤崎が近づくと、警備員が一歩前に出て遮った。

「お帰りください。ご苦労様でした」

 ——“ご苦労様でした”。

 まるで葬儀が終わった後のような言い方だった。

 藤崎は拳を握りしめた。

 確信はあった。

 あの倉庫の奥に、真実がある。

 しかし、扉は二度と開かなかった。

 失踪事件のファイルは封印され、街はまた静かに日常へ戻っていく。

 数日後、街の高級店に新作バッグが並んでいた。

 柔らかいベージュの革。

 表面に、小さな黒子の跡が一つ。

 客は歓声をあげる。

 藤崎は店のガラス越しに、それを見ていた。

 誰も、失踪者たちの名前を口にしない。

 まるで最初から存在しなかったかのように。

 ——上は知っている。

 だから、捜査を止めた。

 街にはまだ、材料がいる。


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【(5)】

 失踪事件は突如、捜査中止となった。

「自主的な失踪だ」「捜査の必要なし」

 紙切れ一枚で七人の行方は闇に放り込まれた。

 だが、藤崎は納得できなかった。

 夜ごと倉庫街へ足を運び、単独で捜査を続けた。

 そしてある晩——

 倉庫の陰から、重い袋を運ぶ男が現れた。

 若い。肩を震わせながら、袋を抱えている。

 湿った、鉄のような匂いが漂った。

「待て!」

 男は逃げない。

 ただ、ゆっくりとこちらを振り返った。

「刑事さんか」

 その顔は不自然なほど冷静だった。

 藤崎は拳銃に手を伸ばした。

「その袋の中身を見せてもらおう」

「やめた方がいい」

 男は微笑んだ。

「あなたが見たら、後に引けなくなる」

「もう手遅れだ。こっちは七人分、追ってる」

「七つじゃない。もっとだ」

 静かな声だった。

 男が指を鳴らすと、倉庫の扉が内側から開いた。

 奥に、ミシンの唸り。

 皮を打ち抜くダダダダという刺すような音。

 暗がりから誰かが近づいてきた。

「……仕立て屋か」

 古びたエプロンの男が、針を指に転がしながら言う。

「警察は困る。せっかく上手く回っていたのに」

 次の瞬間、後頭部に衝撃。

 世界が暗転した。

 ※

 目が覚めたとき、体が動かなかった。

 首から下が、まるで別人のもののように重い。

 皮膚のどこかを引き剥がされるような灼ける痛み。

 息を吸うたび鉄の匂いが喉を刺した。

「暴れないで。傷が付く」

 仕立て屋の声。

 道具の音。鋏。針。糸。

 皮が引き伸ばされる感覚。

 肉から離れる音が、生々しく鼓膜を叩いた。

「大丈夫。痛みはすぐ消える。

 あなたは、綺麗に生まれ変わる」

 暗闇の中で、藤崎は喉を震わせた。

「……誰が、買う……」

「たくさんいる。みんな本物を欲しがってる」

 その言葉を最後に、声も思考も遠のいていった。

 ※

 三週間後。

 鷹野は、街の高級店に立っていた。

 捜査中止後、藤崎は行方を絶った。

 上からは「転勤になった」とだけ報告された。

 だが、何の痕跡もない。連絡もない。

 それはあり得ない。

 藤崎はそんな消え方をする男じゃない。

 鷹野は店内を歩き、ある展示棚の前で立ち止まった。

 柔らかいベージュのバッグ。

 表面はしっとりしなやかで、細かな皺が寄っている。

 どこかで見たような色だった。

 ふと、バッグの側面に小さな黒子があった。

 ずっと藤崎の頬にあった、小さな黒子と同じ場所。

 喉が締まった。

「……嘘だろ」

 指で触れようとした瞬間、店員が笑った。

「お客様、それは一点ものです。

 もう手に入りません。特注ですから」

 鷹野は気づいてしまった。

 誰にも言えない真実に。

 店を出ると、冷たい風が吹いた。

 倉庫街の方角から、低い機械の唸りが聞こえた気がした。

 捜査は終わった。

 藤崎も、事件も、何もかも。

 だが、街にはまだバッグが並ぶ。

 新作は定期的に増える。

 鷹野は拳を握り、前を向いた。

 目は笑っていなかった。

 ——この街は、まだ誰かの皮を求めている。

 それだけは、確かだった。



 <了>


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