夜の仕立て屋
【(1)】
夜の帳が降りると、暖簾を外へ出す。
この店は、夜にしか開かない。
今日の注文は——ハンドバッグだったか。
なめした「皮」を広げる。
手に吸いつくような柔らかさで、指を押し返す弾力がある。
傷一つない、上質な素材だ。
定規をあて、線を引く。
鋏を入れると、静まり返った工房に「ジョキ、ジョキ」とよく響く。
切り口からは、ほのかに温い匂いが立ちのぼる。
仮縫いをし、ミシンで仕上げに入る。
ウィィィン——
針が上下に跳ね、皮を打ち抜くたび、ダダダダダと震える。
ときどき糸を切る霧バサミの音がパチンと混ざる。
この夜の作業だけは、どうしても昼間ではできない。
音も匂いも、街に紛れてしまうから。
代々、我が家は仕立て屋として生計を立ててきた。
みな、腕が良かった。
だが、誰もこの仕事の本当の価値を理解しようとしない。
弟子も取れず、気づけば私ひとりだ。
——ガラガラガラ。
戸が開く。
男が、重そうな布袋を床へ置いた。
「できてるか」
「ああ、もうすぐだ。今日は潔い手触りだ」
「なら、これも頼む。さっきの荷だ」
袋はずしりと重い。
中身を確かめなくても分かる。
新しい“素材”の重さだ。
玄関のベルが、チリンと鳴る。
客は去った。
ミシンを止め、針を抜く。
綺麗なベージュのハンドバッグが一つ、仕上がった。
しっとりとした光沢、細かい皺の模様。
表面には、うっすらと小さな黒子の跡が残っている。
——この世にひとつしかない、完全なオーダーメイドだ。
夜の御用は、どうぞいつでも。
うちは「どんな皮」でも扱えます。
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【(2)】
昼間の街は、騒がしいほど平和だ。
子どもが走り、老人が縁側に座り、店には笑い声があふれている。
だからこそ、わたしの仕事は昼にやる。
——人の顔を見るために。
店先で依頼人が言った。
「新品みたいに、柔らかいバッグを。触った瞬間に分かるような、特別なものを」
客はみな、同じように曖昧な言葉で注文する。
だが、わたしには分かる。
求めているのは、ただの革製品ではない。
「お任せください。手触りの良い素材を探します」
そう言って頭を下げたとき、客はホッとした顔をした。
わたしは依頼の数だけ、この街を歩く。
革の匂いを嗅ぎ分けるのと同じように、わたしは“素材”を選ぶ。
その日の街角に、ちょうど良い若者がいた。
陽に灼けた肌、傷のない背中、よく笑う素直そうな性格。
バッグにすれば、軽くて丈夫だろう。
「すみません、落とし物をしてますよ」
声をかければ、人は簡単に振り向く。
あとは静かな場所へ連れていくだけだ。
仕事は慣れたものだ。
取り扱いが少々乱暴でも、後で職人が綺麗に整えてくれる。
日が落ちたころ、わたしは素材を袋に詰めて歩き出した。
港の倉庫街は、夜になると風が強い。
誰の声も届かない。
袋の重みが腕に食い込む。
やがて、小さな工房に辿り着く。
看板も出ていない、古い建物だ。
ガラガラガラ。
戸を開けると、ミシンの音が止まった。
仕立て屋は振り返りもせず、言う。
「今日のは?」
「柔らかいですよ。若いです」
そう告げると、仕立て屋は満足そうに頷いた。
床に袋を置き、前金を渡す。
ここまで来れば、もうわたしの仕事はほとんど終わりだ。
「また、良い素材を頼む」
仕立て屋の声は機械油のように低い。
ミシンが再び動き出す。
わたしは工房を出た。
夜風が頬を撫でる。
街の灯りを遠くに見ながら、次の依頼のことを考える。
特別な財布、丈夫なベルト、しっとりした手袋。
客の望みは様々だ。
けれど——どれもちゃんと叶えてあげられる。
この街には、良い“皮”がいくらでもある。
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【(3)】
私たちの間では、ひそかな流行がある。
ブランドでも、宝石でもない。
いかに“特別な革製品”を持っているか——それだけが価値だ。
「まあ、見てちょうだい。今夜の新作よ」
夫人がテーブルに置いたバッグは、光を吸い込むような滑らかな艶を放っていた。
薄いベージュに、なめらかな手触り。
どこに売っているのか尋ねる者は誰もいない。
それが、こちらの作法だから。
「すてきねえ。まさか、そんなに柔らかいなんて」
隣の紳士が、そっと指先で撫でる。
皮の表面には、かすかに細い皺が走っている。
けれど、牛でも豚でもない。
この“均一で細かい”質感は、滅多に手に入らない。
「奥さん、どこで?」
「まあ、内緒ですわ。紹介制ですもの」
みんな笑う。
この集まりでは、名刺よりも革製品のほうが信用になる。
誰もが最高の素材を手に入れようと躍起になっている。
中には、決定的な“証”を残すものもいる。
今日の会には、その一つがあった。
「見てください。この財布。模様がね、珍しいでしょう?」
男は誇らしげに財布を開く。
内部の薄皮に、小さな黒子の跡があった。
それを見た瞬間、周囲の空気が変わる。
「まあ……! 本物ね」
声を潜めた称賛が漏れる。
誰も大声を出さない。
ここでは、わかる者だけがわかればよい。
欲望はゆっくり伝染する。
仲間より上の品を持つこと——
それが、彼らにとっての“勝利”なのだ。
「どなたに頼んだの?」
夫人が問うと、男は意味深に笑った。
「紹介してくれる人がいるんですよ。
客の望みに合う“皮”を用意してくれる方がね」
ざわりと背筋を撫でるような沈黙。
それが何の皮か、誰も口にしない。
けれど、理解している。
上質で、柔らかく、傷がなく、よく伸びる。
それを手に入れるには——
同じ街に、同じ数だけ“材料”が必要だ。
夜会は静かに続き、シャンパンの泡がはじける音だけが響く。
テーブルに並んだバッグも財布もベルトも、
どれもこの世にひとつだけの「オーダーメイド」。
そして誰もが、次の品を欲しがっている。
自分より劣る革を身につけたくない。
仲間より、良いものが欲しい。
そのためなら、金でも、人でも、かまわない。
——この街には、まだまだ材料がいる。
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【(4)】
この半年で、街では七件の失踪が報告された。
共通点は、若いこと。手術や傷跡がないこと。行方が突然消えること。
遺体も目撃証言もなく、ただ人が空気みたいに消えていく。
刑事の藤崎は、それを偶然だとは思っていなかった。
失踪者の家族は泣きながら話す。
「優しい子だったんです。誰かに恨まれるような性格じゃなくて……」
「遺書もなく、荷物も持ち出していない。
何かに巻き込まれたとしか思えません」
藤崎は相棒の鷹野とともに、街を歩き回った。
手がかりは薄い。だが、ひとつだけ、共通して気になることがあった。
失踪者全員が、最後に立ち寄ったであろう場所。
古い倉庫街の一角。
夜には人通りがなく、車移動なら誰にも見られない。
「ここで……消えてる」
防犯カメラには、彼らが歩いてくる姿が映っている。
倉庫の角を曲がる。
——そこで映像は途切れる。
まるで、その先にカメラが存在しないように。
藤崎は、倉庫街の店を一軒ずつあたった。
だが、どの店も、営業中の気配は薄い。
そして、ある夜。
倉庫街を巡回していると、細い路地で荷物を運ぶ男を見かけた。
袋は大きく、ずしりと重そうだ。
生ゴミのような湿った匂いが漂った。
「すいません、そこの方——」
声をかけると、男は振り向きもせず足を速めた。
不自然だった。
追いかけようと一歩踏み出した瞬間、鷹野が腕を掴んだ。
「藤崎、やめておけ」
「あいつ怪しい。荷物を——」
「やめておけ」
鷹野の声はいつもより低かった。
まるで何かを知っているような目をしていた。
その翌日、急に捜査会議が開かれた。
上層部の刑事が資料を抱えて現れる。
「失踪事件の件だが、捜査本部は解散する。これ以上の捜査は不要だ」
「不要? まだ七人もいなくなったままなんですよ!」
「自主的な失踪と判断された。以上だ」
藤崎が机を叩くと、上司が静かに言った。
「もう手を引け。これ以上は危険だ」
異論は許されない空気だった。
捜査資料は回収され、失踪事件は“未解決”として葬られた。
その日の帰り道、藤崎は倉庫街へ向かった。
決まりを破ってでも確かめたかった。
だが、倉庫の前には警備員が立ち、立入禁止のテープが張られていた。
「この先、一般立入禁止です」
「ここはただの倉庫街だろ」
「もう使われていません」
無表情な警備員の後ろで、古い木戸が少し開いていた。
中からは、機械の低い唸り音が聞こえた。
まるでミシンが動いているように。
藤崎が近づくと、警備員が一歩前に出て遮った。
「お帰りください。ご苦労様でした」
——“ご苦労様でした”。
まるで葬儀が終わった後のような言い方だった。
藤崎は拳を握りしめた。
確信はあった。
あの倉庫の奥に、真実がある。
しかし、扉は二度と開かなかった。
失踪事件のファイルは封印され、街はまた静かに日常へ戻っていく。
数日後、街の高級店に新作バッグが並んでいた。
柔らかいベージュの革。
表面に、小さな黒子の跡が一つ。
客は歓声をあげる。
藤崎は店のガラス越しに、それを見ていた。
誰も、失踪者たちの名前を口にしない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
——上は知っている。
だから、捜査を止めた。
街にはまだ、材料がいる。
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【(5)】
失踪事件は突如、捜査中止となった。
「自主的な失踪だ」「捜査の必要なし」
紙切れ一枚で七人の行方は闇に放り込まれた。
だが、藤崎は納得できなかった。
夜ごと倉庫街へ足を運び、単独で捜査を続けた。
そしてある晩——
倉庫の陰から、重い袋を運ぶ男が現れた。
若い。肩を震わせながら、袋を抱えている。
湿った、鉄のような匂いが漂った。
「待て!」
男は逃げない。
ただ、ゆっくりとこちらを振り返った。
「刑事さんか」
その顔は不自然なほど冷静だった。
藤崎は拳銃に手を伸ばした。
「その袋の中身を見せてもらおう」
「やめた方がいい」
男は微笑んだ。
「あなたが見たら、後に引けなくなる」
「もう手遅れだ。こっちは七人分、追ってる」
「七つじゃない。もっとだ」
静かな声だった。
男が指を鳴らすと、倉庫の扉が内側から開いた。
奥に、ミシンの唸り。
皮を打ち抜くダダダダという刺すような音。
暗がりから誰かが近づいてきた。
「……仕立て屋か」
古びたエプロンの男が、針を指に転がしながら言う。
「警察は困る。せっかく上手く回っていたのに」
次の瞬間、後頭部に衝撃。
世界が暗転した。
※
目が覚めたとき、体が動かなかった。
首から下が、まるで別人のもののように重い。
皮膚のどこかを引き剥がされるような灼ける痛み。
息を吸うたび鉄の匂いが喉を刺した。
「暴れないで。傷が付く」
仕立て屋の声。
道具の音。鋏。針。糸。
皮が引き伸ばされる感覚。
肉から離れる音が、生々しく鼓膜を叩いた。
「大丈夫。痛みはすぐ消える。
あなたは、綺麗に生まれ変わる」
暗闇の中で、藤崎は喉を震わせた。
「……誰が、買う……」
「たくさんいる。みんな本物を欲しがってる」
その言葉を最後に、声も思考も遠のいていった。
※
三週間後。
鷹野は、街の高級店に立っていた。
捜査中止後、藤崎は行方を絶った。
上からは「転勤になった」とだけ報告された。
だが、何の痕跡もない。連絡もない。
それはあり得ない。
藤崎はそんな消え方をする男じゃない。
鷹野は店内を歩き、ある展示棚の前で立ち止まった。
柔らかいベージュのバッグ。
表面はしっとりしなやかで、細かな皺が寄っている。
どこかで見たような色だった。
ふと、バッグの側面に小さな黒子があった。
ずっと藤崎の頬にあった、小さな黒子と同じ場所。
喉が締まった。
「……嘘だろ」
指で触れようとした瞬間、店員が笑った。
「お客様、それは一点ものです。
もう手に入りません。特注ですから」
鷹野は気づいてしまった。
誰にも言えない真実に。
店を出ると、冷たい風が吹いた。
倉庫街の方角から、低い機械の唸りが聞こえた気がした。
捜査は終わった。
藤崎も、事件も、何もかも。
だが、街にはまだバッグが並ぶ。
新作は定期的に増える。
鷹野は拳を握り、前を向いた。
目は笑っていなかった。
——この街は、まだ誰かの皮を求めている。
それだけは、確かだった。
<了>
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