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ゾンビ  作者: 空腹のペンギン


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8/8

7

「……」

「……」

「……」

 時刻はまだ10時前。薄雲が溶け込んだぼやついた青空からは暖かい陽が差し込んでいる。

 朝の空気が残る中で閑散とした高校内をぶらついていた。赤い煉瓦造りの建物とコンクリートの近代的な校舎が入り乱れ、3人の歩調の間を冷たい木枯らしが吹き抜けていく。

 這い上がるような寒さのせいで、リンはガタガタと震えて普段のうるささは鳴りを潜め、もともと無口な真霜さんは話さず、他の友人は今日大学にはいない……結果としてすごい気まずくなっていた。枯葉を踏む音だけが無言を埋めている。

(でもこれはチャンスのはず……!)

「……この後、予定ってある?部活とか」

 決死で発した言葉に、少し後ろを付いてくる真霜さんはふるふると横に首を振った。ショートの黒髪と首元のマフラーにうずまった色白の顔が小さく揺れる。かわいい。これこそ話した甲斐があるってものだ。

「リンも今日はこの後予定なかったっけ」

 ぶんぶんと頭を振る凛。お前は喋れよ。

「じゃあどっか食べに行こうか」

 学食もあるけどせっかくなら外で食べたほうがいいだろう。というか真霜さんと一緒に外食がしたい……!

「なにか食べたいものとかある?」

 無言で手を空に突き出す友人を無視して後ろを振り返った。厚手のコートの腕がばしばしと頭を襲う。

「…………なんでも」

 3人なら、という言葉とまっすぐな瞳にまた心臓が高鳴る。自称キューピットの腕はいまだうるさいまま。いや痛いな。



 なんでも、とは言われたものの東京の西のほう(山の近く)にある高校の周りは殺風景で、選択肢なんてないようなものだった。悩んだ挙句、結局ハンバーガーのチェーン店で早めの昼ご飯を済ませることになった。

「あー美味しかったー!」

 食事ですっかり元気を取り戻したリンが声を上げた。マスクを取り出しながら「ありがとねー!」とホクホクと顔を綻ばせる。こいつの食事代を持ったのは俺だ。

「やっぱり他人のお金で食べるご飯が一番おいしいねえ」

 隣で笑う。キューピット代1200円、らしい。

 懐は痛むが真霜さんを誘ってくれた恩があるから強くは言えない。それに、

(ハンバーガーを食べる姿も見れたし)

 チーズを垂らしそうになって、慌ててバーガーをほおばっていたのが可愛かった。それでも無口だったけど。

「この後どうしようか」

 まだ12時にもなっていない。真霜さんもいるし、せっかく時間をかけて高校(八王子)まで来たのだからもっと何かしたいところだ。

「行きたいところがある」

 渦巻く思考の中、ぽつりとした呟きが耳へと入った。

「葵ちゃんが?」

 俺と同じく驚いたらしいリンの声にこくり、と頷く。

「ついてきてほしい」

 まあ何もないし、とリンと2人で頷き合うと、真霜さんは「こっち」と道を指さす。


 ―それを皮切りに立ち位置が変わった。

 打って変わって俺たちの前で小さな歩幅で風を切っていく。俺どころかリンよりも身長が低いはずなのに、下手をすれば引き離されそうになる。

 みるみるうちに大学や駅からも遠ざり、背の低い雑居ビルや住宅が立ち並ぶ通りへと入る。立ち並ぶ街路樹と電柱。相変わらず人通りはそれほど多くない。

「おっとっ」

 ぴたり、と唐突に立ち止まった。「ふぎゅっ」リンがつんのめって背中にぶつかる。鼻水とかついてないよな。

「商店街?」

 足を止めたのはなんの変哲もない商店街だった。年季の入った小さな商店が軒を連ねている。

(何か買いたいものでもあったのか)

 きょろきょろと辺りに視線をさまよわせる真霜さんの後ろ姿を見つめる。なんで言ってくれなかったんだろう。

「あ!」

「痛っ!」

 思考を漂わせる中、リンが大声を上げた。咄嗟に耳を押さえる。通行人が振り向く。会釈をして頭を下げる。元気になったらなったでうるさいやつだ。

「ここって!」

「なんだ?」

「ほらほら、何日か前に流れてきたやつだよ」

 知らない?と横を歩きながらスマホを見せてくる。覗き込むとタップで再生される1つの動画。

 夜の街を映した映像、のように見える。今時古いビデオで試し撮りでもしたのか『11月16日』の表示が緑に光っている。

 動画の内容は単純だった。黒い人型が暗闇に紛れながら映り、しばらくしてこちらに気付いたそれが撮影者に向かって襲い掛かってくる、というもの。まあ、正直言ってAI生成かショートホラームービーみたいだ。

「これが?」

 ここだって、とリンが画面の一点を指さした。電柱に垂れ下がっている幕を指している。

「ほら一緒だよ」

 しっくり来ていないこちらに焦れたのか、側の電柱とスマホの画面を隣り合わせにする。

「ああ、確かに一緒だ」

 確かにどちらも同じような形をした垂れ幕がぶら下がっている。

「撮影場所ここだったんだぁ。気味悪くて覚えてたんだよねー」

 妙に嬉しそうなリン。「ホラーとか好きだったっけ」「そういうわけじゃないけど、こういうのなんか嬉しくない?」


 盛り上がるリンをよそに、ここに連れてきた張本人を振り返った。もしかしてこれを見せに来たのか?そう尋ねようとして。

 地面の1点を見つめる姿が目に入った。

「どうしたの?」

「……これ」

 指さす先は何の変哲もないアスファルト、の上に残る……。

「血?」

 見えずらいものの、赤黒く変色した斑点が辛うじて見て取れる。

「向こうまで続いてるね」

 行ってみよーよ!とまたリンが騒ぐ。また通行人がこちらを振り向く。また会釈して頭を下げる。お騒がせな友人はどうやら探偵ごっこをご所望らしい。

「やめとけって、気味悪いぞ」

「でもほら」

 リンがにやつく。「葵ちゃんはもう行ってるよ」

「は?」

 慌てて振り返ると見えたのは、曲がり角に消えていく藍色のマフラー。

(まじかよ)

「お先っ!」

「ちょっ」

 おいかけるべきかどうするか、迷う俺の脇をリンはするりとすり抜けていく。

「葵ちゃーん!待ってー!!」

「……ああもう、くそっ!」

 心配して、というよりかは再びのリンの大声で集まりだした通行人の視線に耐えかねて、結局裏路地へと2人を追いかける。



「お化け屋敷みたいだねえ」

 息を切らす俺。平然と立つ葵。そして上着を脱ぎ全身から湯気を立ち昇らせるリンが、辿り着いた目的地を目を輝かせて見つめている。わきわきと手を動かしている姿は今にも不法侵入しそうだ。

 目の前にあるのは路地裏に建てられた小さな工場、いや工房のようなところだった。ベニヤで造られた屋根は赤く錆びつき、2階建てのその外壁は黒く変色した木が所々剝がれ落ちている。極めつけは開きかけの扉の前にとぐろをまくチェーン。引き戸の隣にかけられた『八王子製作所』の薄れた文字がなければ、倒壊寸前の民家にしか見えなかっただろう。

 そして明らかに工房の中へと続いている血の線とべっとりと扉に付着した赤黒い跡。

 こんなところに入るつもりなのか。

「お、なんか落ちてる」

 入んないのかよ。


 がっくりと首を折る俺をよそに凛が扉の前に座り込んだ。手のひらに収まるくらいのカード、のようなものをつついている。砂ぼこりと擦り傷で汚れてはっきり見えないが、これは……

「……学生証か?」

 受け取ったそれの汚れを袖で擦ると、確かにいくつかのそれらしい文字が浮かび上がってくる。

「なんとか……大学、って書いてあるように見えるな」

「近くの大学の人かな。後で届けてあげないと」

 あーあかわいそー、と表裏にカードを弄ぶ凛。「うわ、顔写真のとこ血付いてる」「事故かもな。汚いしあんまり触るなよ」


 数分経って満足したのか、よし、とリンはポケットにカードをしまう。両開きになっている引き戸の片方に手をかけた。

「じゃあ今度はこの中だね」

「勝手に開けていいのかよ」

「本命だよ?このままじゃ帰れないって」

「……ん」

 迷う俺の前で真霜さんも反対側の引き戸にがっしりと手をかける。そう来なくっちゃ、とリンが笑う。

(やけに積極的だな……)

 やっぱりこれがここに連れてきた目的だったのか。マスクとマフラーで覆われた顔からは感情をよく読み取れない。

「ほらほらユウキも」

 顔を輝かせながら急かすリン。経験上こうなったら言うこと聞かないんだよなあ。

 仕方なくリンの方の引き戸を持った。塗装が剝がれてざらついた感触が掌に伝わる。扉に取り付けられた錆びた鉄棒がむせ返るほどに香る。

「……よし、じゃあ……せえぇぇーのッ!」

「んんんっ」

「んおらあああぁ!」

 3人の気迫が重なると同時に地面から重低音が響きだす。

「よしっ動いてる!」

(にしても重いッ……歪んでるのか⁉)

 見かけよりも重く錆びついた扉は力を合わせてもなかなか開かない。しかしそれでもがりがりと音を響かせながら、徐々に口を大きくしていき。


 やがて50センチ程の入り口が何とか出来上がった。

「ふぅ……じゃ、ほら!」

 ほらって……。

 凛の催促と上野さんの視線に、よし、と決意してから狭い隙間に身体を潜り込ませる。途端に全身を湿った冷たい空気が包み込んだ。この場所が閉鎖されていた事実を裏付けているみたいだ。

「うわ、穴開いてるよ」

 あっけにとられたリンの声ががらんどうの建物内に響く。

 呟かれたその言葉の通り、扉から数メートル入った先の地面に突如として大きな穴が口を開けていた。わずかな扉の隙間からの光が、土に覆われた床板のささくれだった断面を浮かび上がらせていた。

 穴と俺の顔と、交互にきらきらとした視線を向けるリン。言わずもがなだ。

「わかってるって」

 息を1つついてから、スマホを片手にそろそろと穴へと近づく。

 窓らしいものも無い閉鎖的な建物に光は入ってこない。今にも崩れそうな大穴の側にしゃがみ込み、スマホの光を向けた。小さな光が暗闇を丸く切り取り、少しずつ中の様子を明らかにしていく。

 地下室があって、そこの天井に穴が空いたみたいだ。5メートル四方程度の空間の中には、古びた鉄製の棚やかごが土埃の中に散在している。

「どう?なんかある?」

 後ろから響く声に曖昧に声を返す。近さからしてどうやら2人も中に入ってきたらしい。

「いや、なさそうかな」

 その時。

 違和感のあるものが目に留まった。棒のようなものが3本、棚の向こうに突き立っている。30センチから1メートル近いものまで。上下が不均等に太くなったそれらは、しなやかな形のそれらはまるで、

(手足みたいな……)

 思いかけた自分に鼻を鳴らした。リンじゃあるまいし、と本人に言えば叩かれるであろう感想とともに思い捨てかけた。

 その視界の中。丸い何かが映り込む。ただなんとなく気になって目を凝らした。

「……ん?」

 ところどころが陥没したその球体は黒く、大小の穴が空いている。

 穴が、()()()()()()()()


「ッ!」

 背中に走る衝撃。

 反射的に身体を引き戻して倒れこんだらしい。ベニヤの天井が覆う視界にリンの褐色の顔がひょっこりと現れた。興味津々、といった風に目を輝かせている。

「どうどう?何かあった?」

「…………たぶん人」

「え」

 無邪気な質問と戻ってきた間の抜けた声に、もう一度言葉を繰り返す。

「……死体、だと思う」

「……それはやばいじゃん」

「……うん」

 呆然と2人で見つめ合う。謎の空白が流れていく。湿った空気がやたらと重くのしかかる。


 やがて。

「け、警察と救急車呼んでくる!」

「あ、ちょっ」

 いち早く我に返ったリンが声を上げた。元陸上部を止められるはずもなく、静止の声も止む無く慌ただしく扉の外へ駆け出し、姿を消す。

「……」

「……」

 取り残された2人の間に気まずい沈黙が流れた。

 穴の前で寝そべる俺。扉の前で立ち尽くす真霜さん。

 いや、もしくは次の被害者の佐藤有紀、と犯人の真霜葵。

「なあ、これってもしかして」

「ち、違う、わたしじゃないから」

「警察には」

「言ってない。ここに来たのは初めて」

 ぶんぶんと横に首を振る姿に、ため息をついた。ここに来るまでも特に怪しい様子はなかったし、ひとまず同行者が犯人という詰み状況ではないらしい。

(お前もこいつと同じ目に、って事はなさそうだ)

 安堵と共に地面から立ち上がる。

「どうしてここに俺たちを連れてきたんだ」

「…………一人で見るのは、その……」

 途中で言葉を切り上げた真霜さんは「ごめんなさい」と俯いた。

 血が続いているのを見つけたけど怖くなって人を呼んだ、ってところか。

「……どうして俺たちだったんだ」

 変な質問の実行を、変な自信と高揚感がその背中を押していた。『死体』のせいか、それとも自称キューピットのおかげだろうか。

 少しの決意と期待を込めて、俯く葵を見つめる。

「…………佐藤くんこそどうして飽きもせず毎日話しかけてくるの。わたしと話しても楽しくないでしょう」

 向こうからすればなんということもないだろう質問、思いがけないカウンターに言葉に詰まる。「えっと、その」どもる言葉に自信はどこかに飛んでいって、キューピットは多分にやついている。『好きだから』『一目惚れで』という甘酸っぱい言葉はあまりにも場違いだ。死体と隣り合わせで告白はしたくない。

 リンはまだ戻ってこない。

「……仲良くなりたいからだよ」

 曖昧な、漠然とした答え。でも今はこれが精一杯だ。 

 再び沈黙が暗い工場に広がる中、相対する相手が口を開いた。

「……わたしはあなたたちが信頼できると思ったから、連れてきた」

 扉から差し込む陽を背景にして。夕日を背にした時と同じ、食事の誘いに答えた時と同じ、その真っ直ぐな瞳で俺を射抜く。艶やかな黒髪と藍色のマフラーが吹き抜ける風でふわりと舞い上がる。心臓がドクリと鼓動を打った。

(あぁ、やっぱり)

 惜しい、と思った。その表情を覆い隠すマスクだけが。

 警察と救急に連絡したよー、とリンの大声が二人の工房の中に遠く響いた。



「あなた方が通報してくださったんですか」

「はい」

 眼前に立ちはだかる目つきの鋭い警官にはっきりと答える。

 路地裏にオレンジの斜光が差し込むようになる頃になって、ようやく警察と救急は到着した。新型のウイルスやらインフルの流行やらで、やはり色々とひっ迫しているのだろう。

「俺が佐藤有紀で、こっちが」

「橋本凛です!」

「真霜葵」

 次いで在籍高校、年齢、電話番号。スマホを片手にした男にできる限りの自己開示を済ませると、答弁もとい自己弁護を再開する。鋭い目はこちらを犯人ではないかと疑っているようで、あまり気分は良くない。

「あー、見つけた経緯は?」

「偶然この辺りを通りかかった時に血痕を見つけまして」

 俺の言葉に二人はこくこくと頷く。これは噓ではない。

「それで扉を開けたと」

「中に怪我をしている人がいるんじゃないかって、心配になって」

 二人が赤べこのように頭を上下させる。これは嘘だ。

 「ふーん」と警官は頭を掻く。なにか気になるところでもあったか?

「あ!」

 唐突なリンの大声に、手元に落ちていた警官の頭がぎゅるんと回転する。鋭い目が「なにかやましいことでもあるのか」と問く。リンが慌てる。「犯人じゃないですよ⁉」鋭い目がますます鋭くなる。

「あの、これが近くに落ちてて!関係あるかはわかりませんけど……」

 リンがコートから差し出したのは薄汚れた小さなカード―工房の前で拾った学生証だ。

「ああ、どうも」

 手早く手袋をつけた警官がカードを受け取るとぺらぺらと表裏を確認する。同時にリンの顔もちらちらと確認する。「だから私じゃないですって!」

 怪しむ一人。泣きそうな一人。立ち尽くす二人。

 無言の四人の周りを何人もの人が行きかう。下につながる階段を見つけたのか、薄暗い工房の中から「担架こっちに持って来て」と言葉が飛んできた。


「あーでは今日は帰って下さって大丈夫です。また後日聴取する場合は連絡させていただきます」

 たっぷりと考え込んだ後、結局警官はそう言葉を切り上げた。路地をやってきた警官の一団と一緒になって工房の中に入っていく。

「見逃された~」

 警官の頭が再び回転する。ヒッとリンが顔を引きつらせる。

 なんで学習しないんだ。

「早く帰るぞー」

 固まるリンを背後に置いたまま、路地を戻り始める。


「……真霜さん、このあと」

「……葵、でいい」

 え。

 その言葉に隣に目を向けた。

 なにも変わらない、普段通りの彼女が俯いて歩を進めている。マフラーにうずまった色白の顔は夕焼けのオレンジに照らされて、どの感情に染まっているのかはわからない。

「葵って呼んでくれて、いいよ」ちらりと横目でこちらを見ながら、くぐもった声で繰り返す。

 じんわりと胸に喜びが広がっていく。

「葵もこのあと一緒に夕食どうかな」

「……うん、行く」

「あ、わたしのはユウキの奢りね!」

 硬直状態から脱したらしいリンの大声が背後から追いかけてきた。




「担架こっちに持って来て!」「はい!」

 工房の隅、地下へと続く錆びついた階段を三人の救急隊員は慎重に足を下ろした。

 とっさにマスクを押さえる。下っていくごとに肉が腐ったような酷い臭いが強くなっている。

 階段の底。ヘッドライトの白い光が左右に揺らめき暗闇を切り取った。三本の光線で浮かび上がるのは荒廃した部屋。埃の積もった床には棚や段ボールが散乱し、天井の穴からは木板の鋭い断面が張り出している。

「こっちです。いました」

 棚の奥。手足のようなものをとらえた隊員たちはそばへと回り込む。そして、

 黒い人体を見つけた。

 倒れた棚に脚を乗り上げ仰向けに横たわっている。その黒い上半身を覆うものは何もなく、下半身は布の切れ端が辛うじて局部を隠していた。

「か、確認を」

 いつの間にか絶句していた三人はその言葉で散開する。生きてはいない、その直感を三人は共有しつつ、しかし医者として既定の動作をなぞった。脈、呼吸、瞳孔の収縮の有無。

 そばに跪き、その黒い身体を鮮明に照らし上げて、悟る。

 顔、胴体から手足の爪先。無数の黒線が縦横に走り濃淡の網目が重なることで、黒く艶やかに染まってみえるのだ。体表の血管が全てどす黒く染まっているのだ。

 吐き気を抑えて瞼を指でこじ開け、顔が引きつる。黒一色の眼球がこちらを見ている。白目が無い。

 悪臭とあまりのグロテスクさに嘔吐く。

 全身から赤黒い筋肉組織を覗かせ、右腕の肘から先はねじ切れている。おろし金で擦ったかのように手足の指は短く薄い。極めつけは頭蓋だ。溢れ出た内容物と剝がれ落ちた毛が混ざりあい、ヘドロのようになって顔の上半分を覆っていた。人相もなにも確認できたものじゃない。

 死体だ。全身の骨が折れている。

「脈拍呼吸、確認できません」

「死亡を確認、だな」

 同僚の言葉に頷き、しかし動きを止めた。「どうしたんですか」「いや、なにか」

 小さな音がする。

 石臼を引いているような重い音だ。

「あ!」

 目を見開く隊員に眉を顰める。

「なんだ」

 口をパクパクとさせるだけで答えない。ただ震える指が自分の後ろを指していた。

 振り返る。

 上を向いていたはずの白目がない眼がこちらを見ていた。濡れたような黒い光がぬらぬらと反射する。傾いた頭からポトリと虫が零れ落ちた。割れた頭が回り、地面と音を立てるのだ。

 ガタガタと棚が揺れる。

「ヒッ!」

「な、なんなんですかこれ!」

 怯える同僚の声を背景に、死んでいたはずだ、という思いが頭を駆け巡る。

 ふと頭に浮かんだのは、つい先日JIHSからiCROWN(*電子カルテの共有システム*)で共有されたある議員の電子カルテの内容、そしてそのウイルスの情報だ。


 『発見されたのは神経系のウイルスで』この男も何かしらが神経系に作用しているのは間違いない。

 『錯乱を引き起こす可能性があり』眼前の男の行動は、通常では考えられない。

 『おそらく体液を通じて感染』


「離れて」

 その声に動きを止めていた隊員はゆっくりと後退った。黒い人は一層強く音を立てる。

「全員直接接触は決してしないように。外の警官全員にマスク配布、距離をとらせて。周囲を封鎖して、病院に応援を要請」

「それって……」

 頷く。

「一名、新型ウイルス感染者の恐れありと認める」


 その情報は伝播する。

 インカムを通じて、穴の中から救急車へ、無線を通じて病院へ。新型ウイルス保菌者の一員として。

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