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―深夜の連絡から5日後。11月17日7時半頃。
「どこもかしこも梅村先生のことばかりだよ」
はあ、とスマホを手にした斉藤はマスク越しに曖昧な息を漏らした。運転席の奥村がバックミラー越しに、簡易のアクリル板で作られた仕切りの向こうを見やる。まだ少し薄暗い冬の空気の中、揺れる車が向かう先は霞ヶ浦1丁目、厚生労働省の本省ビルだ。
「SNSからテレビ、新聞まで。『不可解な事件』に沸き立ってやがる」
既に梅村議員の失踪の一件は警視庁から公表されていた。
ワイドショーやらインプレッション目当ての政治系インフルエンサーやら。事件の奇妙さを強調し、悪趣味なサムネや不正確な煽り文句で金を稼ぐ。他人の不幸を考えない下品な情報の扱いにうんざりしているのだろう。多少の嫌みと共に斉藤はぼやいた。
「しかし血液検査は行えたじゃないですか。少なくともこれでウイルスの有無がはっきりしますよ」
ハンドルを操りながら奥村が慰めともつかない言葉を返す。
あの日からしばらくして、警察は普段では行わない捜査を実施していた。
血液サンプルを科学警察研究所に送付して通常のDNA等の検査を行うだけでなく、保健所と連携しつつJIHS(国立健康危機管理研究機構―*科学的知見を政府に与える病原体に関する専門家集団*)にも検体を輸送したのだ。おそらく『下品な情報』を垂れ流す人々の騒ぎも一役買ったのだろう。大臣に直接電話してまで検査を求めた斉藤にしてみればなんとも言えない事実だ。
ちなみに斉藤や奥村、梅村の秘書の血液サンプルも同様に送付しており、2日前に『異常なし』と結果が出たばかりだ。今日ようやくの登庁となる。
「異常な背景を鑑みれば誘拐の可能性がある、ってことでね。バイオテロの可能性も考慮して決めたそうだ。まあ与党の元党4役、っていう大物が失踪したらこうなるのも仕方ないのかもな」
奥村に向けてというより自分に言い聞かせるような苦々しい言葉に、奥村は思わず微笑んでしまう。曲がったことを嫌い、直球で全力を尽くす。斉藤はこういう人間なのだ。
「予定では今日中に検査が完了して厚労省と統括庁に連絡が来るはずだ」
重い灰色の曇り空を、突き出た無数の摩天楼がその面積を狭めている。幾度かの角を曲がった車はやがて、中央省庁エリアへと入る。
途端、甲高い携帯の着信音が1件の通知を告げる。
「……なにも無ければいいんだが」
秘書が息を詰める中、顔を硬くした厚労省副大臣はスマホを耳に当てた。
『…………「総理!」「総理一言だけお願いします!」「すいません下がってください」「未知の病原体が発見されたというのは事実ですか!」「梅村議員は今どこにいるんですか!」「国民の不安をどう受け止めますか!」「総理にげるんですか!」「総理!総理!!」……首相官邸1階から映像をお送りしました。石田総理はこの後ですね、緊急の閣僚会議を行い事実関係の共有と今後の対応方針などについて議論するとみられています。もし新たな病原体の発見が事実であった場合、先のパンデミックの反省を生かし迅速な対応を行えるのかどうかが注目となります。……「あのね○○さん、思ったんだけどね、自民党は少数与党なわけでしょ、それでこんなね……」……』
「しかし、すごい騒ぎですね。お祭りみたいだ」
「実際そんなもんだよ。『未知のウイルス』が事実なら与党の対応の不手際を叩ける。事実で無くとも情報源になったSNS規制の論調に繋げられる。騒ぎ得ってやつさ」
「なんか……嫌な感じっすね」
首相官邸1階でシャッターを切る記者は閣僚に群がる同業者を遠巻きに見やった。
―永田町2丁目、首相官邸閣僚応接室。
1階の騒ぎも遠くなった4階。集まった記者もここでは声を荒げることは無く、静かにシャッターを切っていた。赤を基調にしたカーペットに刻まれるのは波形の模様。広々とした部屋の四方を取り囲むのは木製の積層壁。定例閣議での閣僚の集合場所である馴染みの深い部屋で、数人の閣僚がマスクで覆った顔を合わせていた。
「遅れました。申し訳ありません」
「いやあ、もう。急なことだったから」
既に腰を下ろしている閣僚の面々。資料を携えながら軽く会釈をした斉藤に、石田総理はそう軽く返す。マスクからはみ出た鼻が言葉に合わせてもごもごと動いた。
その言葉の通り、本来この場にいるのは民道党の厚労大臣のはずだった。それが急遽、今朝になって体調不良で出席不可ということで副大臣の斉藤にお鉢が回ってきたのだ。
「総理、ではそろそろ」
「ああ、じゃあ全員揃ったし行こうか」
隣に腰掛けていた官房長官の囁き声が合図となる。
コの字型に広く配置されたソファでしばらく記者からのカメラのフラッシュに顔を向けた後、ようやく一行は立ち上がった。奥にあるドアをくぐり抜ければ、そこにある一室は閣議室となる。
応接室と同じカーペットに珪藻土の土壁。パーテーションが置かれた、円形の大きな机を取り囲むチェアに次々と腰を下ろしていく。
全員が席に着き部屋が静まりを取り戻し始めた頃、斉藤はぐるりとマスクで顔を白くした一同を見渡した。
今回この場に集まったのは関係閣僚および職員の計6名。
総理大臣の石田湛山、官房長官の須田穰治、厚労省副大臣の斉藤俊介、防衛大臣の木村百合子、内閣感染症危機管理統括庁監理官の佐々木一、厚労省感染症対策部部長の鈴木弘。なお斉藤に関しては大臣の代理出席となる。
この場で今後の初期対応方針が決まるのだ。ゴクリと斉藤は生唾を飲み込んだ。
「内閣感染症危機管理統括庁監理官の佐々木です。まずは私から今回の件の概要を説明いたします」
一瞬の静寂を破り口火を切ったのは、政府全体における感染症対策の舵取りを担う統括庁のトップ、佐藤だった。黒縁の眼鏡とキッチリとなでつけられた髪、スーツに身を包んだ細身の男はいかにも生真面目な役人といった風貌だ。
「10日前の11月7日、梅村和雄議員は東京第2区から出馬した斉藤俊介議員の応援演説中に倒れ、永楽総合病院に入院。その後、11月12日の23時30分頃、院内から失踪し未だに足取りをつかめておりません。警察はバイオテロ等の可能性を考慮し、前原厚労大臣の承認の下、検体をJIHSの保有する村山分室のBSL4指定の施設(*最高レベルの病原体取り扱い施設*)へと輸送いたしました。そして今朝、JIHSから本庁および厚生労働省に連絡があったように、梅村議員の残した血痕から未知のウイルスが発見されました。よって、この場では未知のウイルスへの対策、および政府対策本部の設置や緊急事態宣言発布の有無も含め、議論を行います」
佐藤は手元に持つ資料に目を落としつつ一息に言葉をつないだ後、次の発言者を探すように出席者を見渡した。
ある人物が小さく挙手をする。黒い長髪を後ろで結び、あごひげを整えた濃い顔立ちの男が資料の束を手にしている。厚労省内で感染症対策関連の仕事を管轄する感染症対策部の人物だ。
「厚生労働省感染症対策部部長の鈴木です。私からはJIHSからの報告の説明を」
失礼、の一言と共に、さらりと紙の擦れる音が部屋に拡散する。明るく照らされた木製の机の上を資料がスライドして各々の手元へと滑り込んでいく。
「JIHSでメタゲノム解析(*血液中にある遺伝物質を全て解析する手法*)を行った結果、2種類の未知のウイルスを検出いたしました」
「2つも見つかったのか」
ざわつく閣僚に鈴木が言葉を続ける。
「はい。この2種のウイルスは大きく特徴が異なり、当初は全くの別種であると考えられましたが、比較解析の結果、突然変異により変化した同種別株であると推定されます」
つまり、もとは1つのウイルスで性質が変化して2つになったということだ。
「変異前の株を仮にA株、変異後をB株と呼称します。A株はインフルエンザに類似した病原性を有しており、主に空気を介して拡散。感染すると咳・発熱・倦怠感・嘔吐などの症状を発現すると考えられます。これに対しB株は体液を介して感染、神経系に作用する性質を有すると推定されます。しかしウイルスB株が独自性の高いゲノム構造を有し、比較可能な既知の病原体が著しく限定されることなどから、病原性を完全に把握することは困難であり、JIHSにて目下解析を行っているところです」
以上です、の言葉を残し鈴木の長い報告は唐突に終わる。
「同種別株と言ってもほとんど別物じゃないか……」
「つまり梅村君はそのA株とやらに感染した後、ウイルスがB株に変異したことで精神の錯乱を起こしたと。鈴木部長、危険性についてはどうだ」
「病原性同様に致死性につきましても今の段階で断定することは性急である、と結論づけられました」
「なにも分からんのか。それだと判断しかねるぞ」
「なにぶん実際の感染者を確保できていないものですから」
「神経系のウイルスっていうと、ほかにどういうのがある」
「中枢神経症状を発症する『ウイルス性脳炎』を引き起こすものとしては日本脳炎、インフルエンザウイルス、麻疹ウイルスなどがあります。しかしあくまでもこれらウイルスは多彩な症状の内の1つとしてこの症状を引き起こすものです。今回のような神経系症状を主とするウイルスは他に類を見ません」
「防衛相はどうだ?他国からのテロの可能性は?」
「各方面で情報を収集していますが今のところ目立った情報は確認されていません。中国、ロシア等の領空・領海侵犯の行為も特に活発になっている様子は見られません」
この場で唯一の女性閣僚である木村防衛相の端的な言葉に、石田総理は頭をヘッドレストへと沈める。
「総理、ここは早急な判断が必要です。新型インフルエンザ等対策特別措置法(*国民に重大な影響を及ぼす恐れのある感染症に対して適応される法律。多くの特例措置が解禁される*)により政府対策本部の設置を行い予防措置として先手の対策を行うべきかと」
斉藤の言葉に石田は皺が刻まれた顔をゆがませた。
「そうは言ってもなあ。症例は1件だけで詳しい病原性も致死性も不明となると判断が難しい。今その対応を行えば過剰な政治的反応とみなされる可能性もある」
「鈴木部長からの報告でもあった通り仮称A株はインフルエンザに似た病原性を有しています。現時点でも相当数の感染者がいても不思議ではありません。さらに仮称B株へと突然変異が生じた場合、国民生活において重篤な危機が発生する可能性は極めて大きいと考えます」
「その感染者数の特定はどうする」
「現在PCR検査のセットアップを全力で進めておりまして、あと2日ほどで完了すると思われます。特例承認を行えば数日程度で生産を開始できます。既存のPCRインフラを活用すれば比較的にではありますが容易に生産拡大が可能かと。生産が開始するまでは感染が疑われる人物の特定と隔離、およびメタゲノム解析により判断する他ないかと」
「須田君はどう思う」
話を振られた須田官房長官は空に置いていた視線を佐藤に合わせた。小柄痩身で白髪の姿は梅村に似て骸骨のような風貌をしている。
「んー警察から聞いたけど、梅村君がカメラに写ってたと」
「はい、永楽総合病院の敷地内の防犯カメラに」
警察の防犯カメラ捜査では、梅村議員の病室直下に近い病棟裏を歩いている議員の姿が確認されていた。その後の足取りはつかめていないが。
「じゃぁ大丈夫なんじゃあないですか。自分で移動してたんだから」
暴論だ、と斉藤は愕然とする。病院周辺では生きていたのを確認できたのだから大丈夫に違いないなど訳の分からない理論だ。知らないところで野垂れ死んでいる可能性もある。無事に生きていたとしても致死性の判定もできないほどの未知のウイルスを保有した人間が、いまだ徘徊しているということになる。
政局の混乱を恐れてこのまま対応するつもりか。
「そもそも梅村君の検査をもっと急ぐべきだったでしょう。病院側の怠慢じゃないの」
「現在医療機関は新型コロナウイルスの変異株の蔓延やインフルエンザワクチン生産の不足により極めて逼迫している状況にあります。対応をこれ以上早めることは現実的に不可能でした」
吐き捨てるような須田官房長官の言葉に佐々木が冷静に言葉を返した。
「総理これは有事です。先の新型コロナの流行においては後手後手の対応により、多くの人命や多額の経済的損失が発生しました。しかし今は先とは違いパンデミックに対応するための多くの策があります。過去の経験を生かし国民の命と財産を守るために今すぐ行動すべきです」
斉藤は思わず立ち上がり、目の前の壮年を見据え声を放った。カーペットを滑ったチェアが土壁にかすかな音を響かせる。
斉藤が政界入りした理由はコロナ渦によるものだ。もうあんな惨禍を引き起こさせないために斉藤は政治の世界に入ったのだ。そしてまさにそれが出来る立場に斉藤はいる。
約7メートル四方の格式高い部屋に静かに声が散った。
190センチ近くの大男に、目を瞑り考えを整える総理大臣の言葉を5人全員が息を詰めて伺う。
部屋を静寂が占める。
―やがて。
「拙速に過ぎると政治的混乱を招く可能性もある。政府対策本部は建てない。全国的なまん延の証拠が見つかるまでは厚労省主体で動いてほしい」
目を開いた石田からあっけなく吐き出された言葉。目も合わせず流れ出た言葉に、部屋の張り詰めた空気が一気に弛緩していく。なんとなく、そういった方向へと流れができていく。佐々木と鈴木が淡々と資料をまとめ、平常時の方針を固める。
「では危機管理対応要領に基づいて厚労省内に対策本部を設置。厚労省が主体的に感染症対策を行います。よろしいですか」
「感染症対策物資の生産・流通・在庫状況の確認、保健所を中心とした対応要員の確保、検疫や情報収集などを厚労省対策本部で、補佐及び調整を本庁が行います」
「ああ、頼む」
鈴木部長と佐藤監理官は2人で会話を始める。
「ああ。須田君、1階で記者会見をするから原稿を頼んだ」
「ええ、分かりました」
須田官房長官の返答に石田は頷くと、もう結論は出たとばかりにチェアに身体を沈ませた。いまだ呆然として固まったままの斉藤をよそに、固く目を閉じた総理は言葉を放り投げた。
「解散」
―新型ウイルスに関する第1回閣僚会議、終了。
厚労省は朝の『新型ウイルス発見』の一報から大騒ぎだった。
「総理は対策本部は建てない方針らしい」
「どうしてです。新型コロナの例を考えれば迅速に対応を行うべきでは」
「政局だよ。対策本部の設置要件になる感染症は『急速なまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあると認められるもの』だ。感染能力も感染症状もまるでつかめない、おまけに確認できた感染者は1人だけ。この不確実な状況で建てれば連立の民道党から突き上げをくらう」
「民道党が掲げている減税政策を渋るための政治的な過剰反応と見なされれば」
「下手すれば連立崩壊。そうなれば新しい感染症の流行を前に脆弱な意思決定過程で挑むことになる」
今後の苦難を考えて、2人の官僚は息を吐いた。足早に厚労省の廊下を歩く。
「とにかく今やれることをやるしかない。医療施設に梅村議員の電子カルテとウイルス情報の共有」
「それと現時点での感染者の特定と隔離の要請、ですね」
「お願いベースでどこまでやれるかだな」
「まだコロナが終わってもいないのに次から次へと、仕事が減りませんよ」
片手にぶら下げていたスマホを見やった。
首相官邸での会見の様子が流れている。画面の中で、白髪交じりの我が日本国総理が罵声が飛び交う中、『―できる限りの感染症対策をお願いしたい』と声を張り上げている。




