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『公表の結果を報告いたします。投票総数465票、本投票の過半数は233票でございます。……石田湛山君259票。―君133票。―君41票。―君32票。……右の結果、石田湛山君を衆議院規則第18条第2項により、本院において内閣総理大臣に指名することに決まりました。本日はこれにて散会いたします』
―11月8日、衆議院選挙。
与党であった自由保守党は、物価高対策でのその場凌ぎの答弁や、減税に対する後ろ向きな姿勢、外国人問題解決への消極的な姿勢などにより支持を減らし、大敗。過半数を割り込む結果となった。
これを受け自保党総裁の石田湛山はその日のうちに、今回躍進を遂げた1党、国民中道党の党本部へと押しかけ直談判。その結果、民道党の政策を全面的に予算に盛り込むこと、大臣ポストを約束する、などの破格の条件で連立が成立。与党はなんとか過半数を維持した。
11月11日という異例の早さで開催された首班指名選挙にて、石田湛山は首相続投が決定し同日に組閣を断行。
国民の熱狂と罵声、大物議員の落胆と悲哀、新人議員の狂喜と覚悟。興奮冷めやらず悲喜入り乱れる日本列島に、静かに冬が訪れようとしていた。
―冬も近く冷え込む夜の23時、台東区の路地の一角。一見すると年季の入ったアパートにしかみえない古びた雑居ビルの2階で、男たちは顔を合わせていた。
「改めて厚生労働大臣副大臣の就任、おめでとうございます」
当選したというのに苦々しい顔をする壮年の男を、向かいに座る秘書はわざとらしい笑顔で見つめた。
いくつかの長机とオフィスチェアに、いくつも積み重なった段ボール。打ちっぱなしのコンクリートの壁面には衆院選のポスターが未だ剥がされずに残り、窓側に寄せられたのぼりには男の爽やかな笑顔が浮かんでいる。テナントが入っていない1階はもちろん、深夜になり既に職員が帰った後援会事務所には、2人以外会話を聞く者はいない。
「全然めでたくないよ」
暖房も効きづらい寒々とした一室で、斉藤が嘆く。
それもそのはず、石田総裁が民道党との協議において約束したポストというのが、厚生労働省の大臣ポストだったからだ。斉藤の就いた副大臣という職は、大臣の政策方針を具体化し、法案や予算案の作成を主導することを職務としている。つまり上司が他党の議員になる、ということだ。これまで与党と野党、相対するものとしてやってきたのに急に万事うまくやれるはずがない。
「あーあぁ、総理も無茶なことするよ、ほんとに」
石田総理とは何度も目を合わせたことのある斉藤だが、今回のことは寝耳に水だったらしい。
何度目かも分からない斉藤のため息に、奥村が苦笑いとともに慰めの言葉を掛けかけたその時、
唐突に高音が部屋に充満した。
けたたましい音にびくり、と体を跳ねさせる斉藤につい奥村が吹き出す。一室に充満していた陰気な静寂が笑い声で一掃されていく。
「すみません」
携帯の着信音か。大げさなほどに胸をなで下ろす斉藤に、いまだ半笑いの秘書が自身のスーツをまさぐる。
「どうした?」
「あー、永楽病院からの電話です。おそらく梅村先生のことかと」
梅村と聞いて斉藤は納得とともに、7日の応援演説とその後の様子を思い浮かべた。こちらに電話がかかってきたのは病院内まで連れ添った奥村が連絡先を伝えたからだろうか。激動の数日間で印象が薄れてしまっていたが、そもそも与党の元党4役の1人が入院しているというのは大事には違いない。
「失礼、出ますね」
「ああ」
「どうしたって?退院の話か?」
数分後、電話を終えた奥村に斉藤は尋ねた。先ほどまで応対を続けていた公設秘書の顔色はなぜか悪く見える。
「いえ……容態が悪化してるらしく。嘔吐や下痢、寒気のほかに吐血していると」
「吐血?新型コロナの肺炎か」
「いえ、PCR検査でのコロナウイルスの検査は陰性。インフルエンザも陰性だったそうです」
え?
歯切れ悪く報告する秘書に斉藤の頭に1つの可能性が過る。つまり、それは、もしかすると未知の……
ぞくり、と斉藤の背筋に寒気が這い寄った。
鮮明に蘇るのは数年前のパンデミック。誰もいなくなった交差点にマスクだらけの職場。逼迫し崩壊していく医療現場。困窮する家庭に、停滞する経済に、感染者数の棒グラフだけが伸びていった。その半ばで、正義感のようなものに駆られた斉藤は政治の世界へ進むことを決意したのだ。
まさか、と斉藤は自分を嘲笑するようにして無理矢理衝動を押しとどめた。白く染まった仙人のような髪と骸骨のような痩体を思えば、ただの風邪であっても血を吐くこともあり得るかもしれない。
「……新たなウイルスの検出は?」
「まだ検査を行っていないそうです」
「どうして」
苛立ちが募るのを感じながら斉藤は声を上げた。ほとんどあり得なくても、しかし万が一にでもその可能性がありえるのなら、できる限りの対応をしなければならない。
「半年ほど前からの鳥インフルの影響ですよ」
こちらを見つめながら端的に放たれた一言に、斉藤は把握していたはずの事象をようやく思い出した。
「ワクチンか……」
インフルエンザワクチン。
その製造過程においては、まず大量の発育鶏卵を用いてウイルスを増殖させる必要がある。そしてその後、ウイルス粒子を精製して感染能力を無くすことでワクチンは完成するのだ。一応、代替材料も存在しているとはいえ、未だにほとんどの製造プロセスにおいては鶏卵が使用され続けている。
つまり鶏卵が不足すれば、インフルエンザワクチンの大量生産も不可能になるということだ。
当然、感染者や重病患者が増える。
梅村に付き添ったときに見た病院の光景を思い返しているのだろう、遠い目をしだした奥村に、斉藤は医療の逼迫具合を改めて思い知った。
それと共に焦燥が斉藤の胸を満たしていく。
「電話してみる」
「誰にですか」
「大臣」
「おお、斉藤君か」
電話が通じる、すると途端に騒がしい複数の笑い声が背景に混ざり合った。与党入りを祝してどこかで飲んでいるのだろうか。のんきなものだ、と斉藤は頭の片隅で悪態をついた。
「それで、こんな遅くになにか用かな」
わざとらしいほどに柔らかく鷹揚な声。しかしその中には確かなとげがある。斉藤の頭に、腹のどっぷりと出た頭の禿げ上がった男が思い浮かんだ。
この厚生労働大臣は与野党問わず、いわば節操なしにあちこちの党へ渡り歩いてきた議員だ。政治理念の曖昧さはかえって多方に顔が利くことになり、今回のポストを得たのだ。一言でいえば斉藤が最も苦手な、選挙に全力を尽くし権謀術数を重ねる『政治屋』である。
自民党の議員であること、それに斉藤が若いながらにタレントのような人気を持っていることが気に食わないのかもしれない。以前ポストが決まり顔を合わせたときも侮るような顔をしていた。
義務感と焦燥感で不快感を押しとどめ、斉藤は電話口に言葉をつないだ。
「自民党の梅村先生のことでして」
「ああ、ああ。投開票前日に倒れられたと聞いたよ。それでも当選したのはさすがだね。それで、どうしたの」
一息に、溜まった言葉を吐き出す。
「新たな感染症の疑いがあります。しかし新型コロナやインフルエンザで医療体制が逼迫しておりまして詳しい検査ができない状況にあります。つきましては手を回してもらえないでしょうか」
瞬間、沈黙が包む。途端の背景のあまりの騒がしさに、斉藤は大臣が大衆居酒屋で飲んでいるのかとさえ思えた。
空白の後。
プッと大臣は吹き出した。
「斉藤君、そんなのじゃ動けないよ。今の厳しい情勢分かってるよね?変に騒ぎが起こっちゃったら次こそ野党転落だよ?」
その厳しい情勢の選挙後に大騒ぎしているのは誰だ。同じ船に乗ったんじゃ無いのか。喉元まで出かかった言葉を、斉藤はなんとか理性で嚥下する。
「最悪の場合、新型コロナのようなパンデミックを起こす可能性があります。予防的判断でいち早く対応を検と」
「ごほっごほっ!げほげほ!ぐ……ぅうんっ……ああ失礼失礼」
わざとらしいほどの激しいせき込みに言葉が絶たれる。最近風邪っぽくてね、と口角を上げる様子が目に見えるようだ。
「……どうか検討を」
「こっちは忙しいから。それだけなら切るよ」
ハンッと斉藤の言葉を鼻で笑った電話先の相手は、一転してあざ笑うことにすら興味が失せたかように冷たく言い放った。背景の歓声に溶け込んでいく。
「もしもし、もしもし!」
言葉を返す間もなく、途絶音を残して会話が断ち切られる。
深夜の一室に静寂が戻る。
「くそ……」
こうなるのが当然、ダメ元だとは思っていたがそれでも収まらない落胆。そしていまだ燻る焦燥。
「あの」
「…………ああ」
部屋の中のもう1人の人物の声に斉藤は俯いていた顔を上げる。ダメだった。そう言おうと振り返った斉藤は、目を瞠った。
青を通り越して蒼白になった秘書。スマホを握る片手はよほど力が入っているのか、プルプルと小刻みに震えている。
「どうした」
あまりに動揺ぶりに斉藤は戸惑いつつも、そう言葉をかける。
ぱくぱくと口の開閉を繰り返した奥村は、喉奥から言葉を絞り出すように口を開いた。喉に引っかかり掠れた声がようやく形を成していく。「病院からまた連絡があって」
「さっきの電話の後、先生の病室へ行ったそうです。そしたら、その……いなくなってしまっていたらしく」
「誰が」
「梅村先生です」
いなくなった、いなくなった、…………いなくなった?
ようやく言葉を消化した斉藤の口から間の抜けた音がこぼれ出た。……誘拐?
「病室の窓ガラスが内側から割れていて、床と直下の地面に血痕だけが残っていたそうで。監視カメラなんかも確認しつつ病院内を探しているそうですが見つからないと」
自分で出たのか?
「先生の居た病室は確か」
「病院の最上階、5階です」
選挙前日に見た永楽総合病院のそびえ立つ外観を思い出す。自力で落ちて逃げ出した?
骨と皮だけの骸骨のような風貌が斉藤の頭に再度思い浮かんだ。折れた四肢で深夜の病院をうめきながら這い進む。
あの身体で、15メートル以上落下して、それでも生きていたのか?
「警察にも既に通報したそうです」という言葉が頭に入らず、右から左へと耳を通り過ぎる。
「……通ってるとは思うが、念のため党本部に連絡を」
「分かりました」
慌ただしく動く2人の頭の中から厳しい政治情勢のことなどはもはや抜け落ちている。同じ東京都内で起こった不可解な状況が深夜の事務所を蝕んでいった。




