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「ふああぁぁ……あ?」
朝。
俺―佐藤有紀はあくびをしたポーズのまま体を固めた。
バタバタと動き回る母とスーツケース2つにまとめられた荷物。いつもの朝とは到底言えない光景にぽかんと開いた口が閉まらない。
本来ならいつものルーティーンをこなすだけの時間なんだけど。
「じゃあ、家のことよろしくね。ご飯は作り置きしたのが冷蔵庫に入ってるし、なくなったら自炊して。あと洗濯と掃除。ちゃんとするのよ、帰ってきたとき家の中ぐちゃぐちゃなんてやめてよ~」
せわしく荷物を運びながら出された覚えのない要件に、つい間の抜けた問いが流れ出た。
「あれ、どっか行くんだっけ」
その言葉にあのねえ、と母はあきれた様子で手を止めた。咎めるような視線が寝起きの頭に痛く突き刺さる。
「遠い親戚が亡くなったでしょう。1ヶ月くらい秋田の方にお葬式とか荷物をまとめたりしに行くの。何回も言ったでしょう」
「あー、聞いてなかった」
東京から秋田よ、東京から秋田。向こうで勝手にやってくれればいいのにねえ。そう愚痴を漏らす母に苦笑いがこぼれる。仕事人間の母からすれば親戚間のあれこれという血縁ゆえの割り切れないものは苦手なのだろう。
「とにかく1ヶ月、1人でよろしくね」
「え、父さんは?」
「お父さんも仕事終わったらそのまま向こうに泊まりづめよ」
スーツケースをフローリングの上で転がし、不本意そうに靴に脚を突っ込む母を眺める。
「学校、遅れないように行きなさいよ」
来年は受験生なんだから、の一言をこちらに放りつけて玄関がバタンと閉められた。途端に静まり返った家に1人残される。
(台風一過って感じだな)
とりあえずリビングに戻り、置いてあった食パンを囓る。手持ち無沙汰になって、なんとなく点きっぱなしになっていたテレビを見やった。
『……2日午後7時ごろ、東京都荒川区隅田川の河川敷で「人の腕のようなものが浮いている」と110番通報がありました。警察官が現場に駆け付け捜査を行ったところ、男性のものと思われる右腕が発見されたということです。荒川警察署は事件・事故の双方を視野に入れ、身体の身元や詳しい経緯を調べる方針です。……ニュースを続けます。5日後の11月8日に投開票が迫る衆議院選挙では……』
物騒なもんだなあ、最近は。年寄りのような感想を抱きつつ、続く天気予報をぼんやりと見守り………。
家を出るべき時間を遥かに過ぎた時間が目に入った。現在地の中野区から八王子にある高校に向かうにはギリギリの時間。
「あ、ヤバ」
呆れかえる担任の顔が頭に浮かぶ。
今日欠席したら次のテスト範囲分からないじゃん……!
静まった廊下。扉の前に座り込んだ俺は、慎重に扉をスライドさせてわずかに隙間を開く。
途端にクラスにあふれる声々が耳を聾した。机に腰掛けて話を続ける女子や塊になって盛り上がる男子、気ままに授業前の時間を楽しむクラスメイトの様子からすれば、教室の前方に担任はまだいない、ように見える。しかし実は見えにくいとこにいるだけだったりすれば……。
(入るべきか……)
「あ、ユウキ」
あー、と躊躇する俺に聞きなれた声が唐突に投げつけられる。突然のことにびくりと背中が跳ねた。
「何してんの。入んなよ」
ちょいちょい、と手をこまねくいかにも快活そうな見知ったその姿が細い隙間から目に入る。
橋本凛だ。中学からの友人で、ショートに切りそろえられた髪と日焼けした肌はいかにもスポーツが得意そうに見える。実際、中学の頃は部活で陸上をやっていてなにかと活躍することが多かった。
しかし声が大きい。ジェスチャーで声を抑えるように伝えるとリンは首を傾げた。
(なんで分かんないんだよ……!)
じれったい気持ちになりつつも一番気になることを小声で問いかける。
「担任は?いる?」
「?まだ来てないけど?」
こちらに合わせて小さくなった言葉に、ほっと胸をなでおろす。テストの点数は守れそうだ。
何も気にするものはなくなった俺は堂々と扉を滑らせ、リンの隣の机に荷物を下ろした。
「よかったねぇー。せんせい体調悪いんだって。ワンチャン今日自習になるかも」
「体調不良って?」
「まあ多分インフルでしょ」
最近流行ってるしさー、と語尾を伸ばすリンに、こちらも半ば適当に言葉を返しながら、教室に目線をさまよわせる。
「ほら、ちらほら休みの子もいるでしょ」
35脚の椅子と机、確かにその量に対して人がまばらだ。マスクをしている人もちらほらと目に入る。
「ま、ぼっちには分からないか!」
「うるさい」
「話す相手いないもんねー。私以外顔と名前も一致しないんじゃないの?」
にやにやと笑いながらリンが隣でささやく。キレそう。
(ああ、くそ)
ペースに乗せられそうになっているのに気づき頭を振る。こんなことをしている場合じゃないんだ。
決心をして椅子を引く。
「お、今日も行くんだぁ。熱心だねー」
「だからうるさいって」
からかう声を背中に、騒がしい教室の隅に座る人物まで足を運ぶ。
艶やかな黒髪のボブに、寡黙で掴みどころのないような雰囲気。
真霜葵。一目惚れの相手だった。
「おはよう。なに見てるの」
「……ん」
わずかにこちら側に傾けられた液晶から見えるのは……赤や緑に彩られた線やグラフ?
これは……。
「えっとこれって……」
「株」
(株⁉読書してるとかじゃなかったのか)
「む、難しそうだね。そういうのやったこと無くてさ」
どうしよう。予想外の展開に言葉が出てこない。
ちらりとこちらに目線を向ける。
(まつ毛長っ)
「高校生ならやるのは普通」
「そうなの?」
会話の空白を埋めなくては、と急いた気持ちで「やってる人は少ないんじゃない」と口にしたこちらを、上野さんは冷たい目で数瞬見つめる。
「……そう」
(やばい、間違えた)
ミスだ。相手が興味を持ってるものに変な茶々をいれたら当然こうなるに決まってるのに。頭から血の気が引いていく。
「あ、えっと」
そっぽを向いた、というかスマホに向き直した凛は、俺が眼中になくなったのか再び指を動かしだす。
「はい、座ってー」
教室に響く声。
タイムアウトだ。仕方なく元の席へと帰る。
「おつかれ」
「うるさいって」
ゴホゴホと、マスク姿の担任が咳の音を教室に振りまきながら教壇に荷物を下ろしている。
「えーじゃあ、出席取ります」
間違いなく面白がっている凛の気配を隣に感じつつ、机に体を突っ伏した。最悪だ。
間延びした点呼に返事を返しつつ、頭を腕にうずめる。
「ほら、ちゃんと持って」
朝は中野から八王子へ電車で40分。夕方はそれを逆戻りに辿る。
高校が終わり部活にも所属していない俺は、同じく帰宅部リンの「暇なら手伝って!」という言葉と共に買い出しに付き合わされた。凛は高校進学をきっかけに1人暮らしをしているから、こうやって荷物持ちに呼び出されることも少なくない。
暗くなった道を2人横になって進む。厳しい残暑も通り過ぎて最近はすっかり寒くなった。襟を立てた道行く人々をオレンジ色の街灯が照らす。
「やっぱり卵高いままだったなあ」
ため息をついて、リンはそう嘆いた。やかましい友人の珍しい姿を見て思わず「なんで?」と疑問符が飛び出る。
「鳥インフルエンザだって。ニュース見ないの?」
何か月か前から流行ってて殺処分してるせいで卵が減ってるんだってば、とあきれた様子で言う。
「いやだよねえ、病気ばっか流行ってさ。インフルとか鳥インフルとか。やっとコロナが落ち着いてきたのにさ」
普段の様子からは想像できないような沈む声に、はっとする。
―新型コロナウイルス。
青天の霹靂とも言える出来事。唐突に降って沸いたこの災厄に、小学6年ごろから中学の半ばまで本来やれるであろう行事がことごとく奪われた。最後の思い出になるはずの修学旅行。はじめての文化祭や体育祭。記憶に残っているのは一面の白いマスクに、どうしようもできない1メートルの距離だった。
人一倍活発なリンはその痛みもまた、人よりも感じていたのだろうか。
無言になった友人に何を言えばいいか分からなかった。手に掛かる荷物が重くなる。閑静な住宅街を通り過ぎていく。『RNAコロナワクチンは危険物質!!自由民本党は今すぐ使用の中止を!!』最近よく聞く名前の政党ポスターがいやに目に付いた。
「……」
「……」
「あ、葵ちゃんだ」
え、と咄嗟に顔を上げ、辺りを見渡す。
「ふ」隣でリンが口角を上げた。
―騙された。
「お前っ、ほんっとうにさあ……」
「あはははは!!ごめんごめん」
(心配して損した)
先ほどのしんみりとした雰囲気が嘘だったように快活に笑う悪友にそんな感想が頭に浮かび、そして少しほっとする。
「でも、嘘じゃないよ」
ほら、と道の先を指さした。指の先に、ぼんやりとした人影が街灯に照らされて浮かび上がる。
艶やかな長い黒髪は確かに、上野さんのようにみえる。
「私は家近いから大丈夫」
頑張んなって、とからかうように笑う。
「好きなんでしょ」
「違っ、俺はただ……株に興味があって。教えてもらおうかなって思ってるだけで」
「やってる人は少ないのに?わざわざ?」
聞いてたのかよ。
「じゃあね~」
せいぜいうまくやんなよ、と笑みと共にひらひらと手のひらを振る褐色肌の友人。苦々しく思い、しかし頬が緩む。とりあえず感謝を胸に抱きつつ足を急がせた。
「こんにちは」
っていうほどの時間でもないか。
警戒気味にこちらに視線を向けた真霜さんはどうでもいいものを見たかのように、また正面を向き直して歩みを早める。明らかに嫌われている。
(朝もこんな感じだったな……)
折れそうになる心に鞭を入れ、隣を歩く。
「荷物持とうか」
「いい」
「でも重そうだ」
大きく膨らんだベージュの手提げバックは、明らかに身体の細さに不釣り合いだ。肩に食い込んだ重みに振り回されて、ヨタヨタとした足取りは今にも止まってしまいそうで……。
ついに耐えきれなくなったように、ごつん、と鈍い音をアスファルトに響かせた。半ば落とすように袋を地面に下ろす。
「ほら」
「………」
眉を下げた戸惑うような表情に、手を差し出す。
「持つから」
おずおずと差し出された持ち手を引っ張り上げた。内容物が擦れ合いつつずっしりとした重みが肩に伝わる。
真霜さんに続いて道を進み出す。横並びになる男女の制服を、斜陽と薄らとした月明かりが照らす。
「あの……ありがとう」
「全然。好きでやってることだし」
内心でガッツポーズを決めながらそう返す。感謝の言葉というご褒美に、肩の重みも気にならなくなる。
「にしてもこれ……」
(なんで缶詰ばっか?)
がらり、と触れ合うバックの開口部から銀の容器をのぞかせているのは明らかに缶詰、にみえる。他にもレトルトのカレーやパックご飯、日持ちするものばかりだ。
口に出さずともなんとなく思っていることが伝わったのか、隣でそっけなく言い放った。
「……必要だと思ったから」
「ここ」
「うん、分かった」
塗装も剥がれ古いアパートの一室の前に荷物を下ろす。真霜さんもリンと同じく1人暮らしなのだろうか。
「じゃあ、これで」
「あの」
立ち去りかけた背中に、言葉がぶつかる。振り返ると冬の暗がりに沈むアパートの前に、真霜さんは口を開けた扉を背に立ち尽くしていた。点滅する蛍光灯に照らされて、ためらうような表情が、無表情ではない顔が、こちらを見やっている。
「どうしたの?」
一瞬の後。
「……あなたも、買っておいた方がいいかも」
「え」
ぽつりとこぼれた言葉に戸惑いが漏れる。どういうことだ。
「……じゃ」
用は済んだとばかりに、赤錆がついたドアノブを軋ませながら引っ張ると、真霜さんは家の中へと消えていった。バタン、という音を後に、扉の前に1人取り残される。
「あー………」
意図は分からないし、そんなに深い意味はないのかもしれないけど。
「買っとくか」
来た道を1人戻っていく。どうせ家には俺1人だけだ。遅くなっても誰も気にしないだろう。
浮足立つ気持ちを自覚しながら再びスーパーへと足を向けた。大通りへと戻り、スーツ姿の人々の流れを逆行していく。
もうすっかり暗くなった都市を騒がしいネオンと広告が埋めていく。残業で照る幾本もの摩天楼が遠くで夜空を突いている。
「そういや」
頭の片隅で思い浮かぶ。朝と夕、問答無用で目の前で閉じる扉とその後の静けさ。
(似たような感じだ)




