070A. 若き老中(構)―揺れる応答―
机に戻った若き役人は、しばし呆然としていた。
老中直々に声をかけられるなど、夢にも思わなかったからだ。
差し出された書状を広げれば、そこには細かい数字と地名が連なっている。
勘定所の誰もが避けてきた領域――幕府の歳入の裏を洗い直せ、という指示であった。
「これを、私に……」
思わず声が漏れる。
重責の重みが肩にのしかかる。
一歩間違えれば、諸先輩からにらまれ、身の破滅を招く。
だが同時に、胸の奥で別の感情が沸き立っていた。
――ようやく、力を試せる。
評定所での一幕を耳にしていた。
若き老中が沈黙をもって諸老を制し、最後に具体策を語ったと。
その言葉が、広間にいた者の胸を揺らしたと。
「威を保つは形にあらず、実にございます」
その一言が忘れられない。
筆を執り直し、書状に目を走らせる。
数字の列が、次第に生き物のように動き出す。
倹約の積み重ねでは見えぬ、新たな流れを掴めるかもしれない。
彼は深く息を吸い、心に決めた。
――老中様の声に応える。
この手で、新しい算段を見つけ出すのだ。
蝋燭の火が静かに揺れる。
その光の中で、彼の筆が初めて、未来に向けて走り出した。
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[ちょこっと歴史解説]
阿部正弘が進めた人材登用の特徴は、身分や年齢より「実務の才」を重んじた点にありました。勘定所や学問所から抜擢された若手は、周囲の反発や危険を承知の上で動き出しました。彼らの「応じる決意」が、幕末の改革の土台を築いていったのです。




