069A. 若き老中(構)―密やかな打診―
評定所のざわめきが、まだ耳に残っていた。
反発、警戒、沈黙……。
あの場で言葉を尽くしても、すぐに改革が進むものではない。
だからこそ、別の場で動かさねばならぬ。
夜。
灯火のもとで私は机に向かっていた。
呼び寄せていたのは、勘定所で才を見せ始めた若き役人である。
表立ってはまだ無名、だが筆は確かで、数字にも強い。
「今宵は他言無用に願いたい」
そう切り出すと、彼は深く頭を下げた。
「倹約の策では、国は立たぬ。
ゆえに、新たな算段を要する。
その目で勘定を見直し、隠れた筋を探り出せぬか」
彼の目が揺れた。
「老中様、そのような大事を、私のような若輩に……」
「若輩ゆえによい」
口をはさんだ。
「古き手筋に囚われぬ者こそ、いまは要る」
沈黙。
灯火が揺れ、影が畳に伸びる。
やがて彼は、覚悟を決めたようにうなずいた。
「承知いたしました。命じられるままに」
胸の奥で、わずかに息が熱を帯びる。
これは、まだ小さな一歩にすぎない。
だが確かに、今日ここで新たな歯車が回り始めた。
私は机の上の書状を、そっと彼に渡した。
「これは、密かに進めよ」
灯火の下で交わされた言葉が、この国を動かす種となる。
そう信じながら、筆を置いた。
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[ちょこっと歴史解説]
阿部正弘は老中就任後、すぐに改革派の若手を登用していきます。勘定所・学問所などから有能な人材を抜擢し、密かに情報や資料を集めさせたのです。これは派手な布告ではなく、「人を選び、密かに任じる」ことから始まった点が特徴です。小さな打診が、のちに大きな改革の流れへとつながっていきました。




