008KT.黙して
おかしい、と思ったのは、たしか初めて言葉を交わした日だった。
私は佐久間象山殿の講義を拝聴するため、勘定所の命で随行しただけだった。
だが、その教場の隅にいた一人の若者――勝麟太郎には、何か、妙な“ほころび”があった。
言葉遣いは控えめ。振る舞いも粗相はない。
それでいて、どこか目の奥だけが、時代から浮いている。
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私は人間の「間」を見るのが癖だ。
言葉と表情、沈黙と瞬き。そのどれにも、性格や本質がにじむ。
あの男は、会話のテンポをわざと外す。
質問には答えず、答える時には誰も聞いていないことを言う。
――それは、言葉を“演じている者”のやり口だ。
思わず問うてみた。
「勝殿、貴殿は何者ですかな?」
冗談のように言った。
だが、返ってきた笑顔には、ほんのわずかに“防御”があった。
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私のような役人には、日々多くの者が関わる。
無能、曲者、才人、変人。すぐに見分けがつく。
だが、麟太郎は……見えすぎて、見えない。
まるで、
「全体像を隠すために、あえて素直にしている」
ような人物。
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その後も何度か顔を合わせたが、彼の中には一貫して「本当の答えをどこかにしまっている」気配があった。
たとえば、蒸気船の話。
冗談めかして投げた話題に、周囲は困惑したが、私は試しに「燃料の確保が難しい」と返してみた。
反応を見たかったのだ。
彼は、息を止めたように一瞬黙った。
言葉よりも、その“沈黙”の質がすべてを物語っていた。
あの男――未来を知っている。
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……だが、私もまた、そう遠くはない場所から来ているのかもしれない。
この国が変わるという確信は、すでに心の中にある。
それが何によって、どこへ向かうのか。その先に、彼がどう関わってくるのか。
今はまだ、見極める時だ。
だから私は、名乗らぬ。
ただ、目を凝らす。
あの男の正体が、
やがて、この国の命運にどれほどの重みをもたらすのか――
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[ちょこっと歴史解説]
川路聖謨と勝海舟──幕末を支えた知と胆
川路聖謨と勝海舟は、ともに幕末の政局で重要な役割を果たした幕臣ですが、性格も評判もまったく対照的でした。
川路聖謨は、実直で誠実、几帳面な官僚タイプ。外国との交渉にも毅然と対応し、部下にも慕われた人格者でした。ただ、時代の変化には悩み苦しみ、最後は自ら命を絶ちます。まさに「幕臣の鑑」とも言える存在です。
一方の勝海舟は、弁舌さわやかで柔軟、どこか憎めない策士タイプ。海軍創設や江戸無血開城など、大胆な行動力で時代を切り開きました。その分、敵も多く「調子のいいやつ」と見られることもありましたが、最後まで生き抜き、新政府にも重用されました。
同じ幕府に仕えながら、**一方は理想に殉じ、一方は理想を抱えつつも現実に生きた――**そんなふたりの姿は、幕末という激動の時代を象徴しているかもしれません。




