060A. 若き老中(影)ー古参のまなざしー
「また若造が口を開いたか」
心の中でそう呟きながら、私は口元を崩さぬまま耳を傾けていた。
老中の席に着くには、まだまだ経験も浅く、重みも足りぬ。
そう思っていたし、今もその見方を簡単に変える気はない。
だが、机上に差し出された一枚の紙。
それは、表立った大策ではなく、小さな手直しにすぎぬもの。
本来なら、目を通すまでもなく退けてもよい。
──にもかかわらず、会議の空気は一瞬ざわめいた。
老中たちの間に、見えぬ糸が張られたような静寂が走る。
「……ならば、まずはその範囲で試してみるがよい」
私は、そう言葉を置いた。
突き放すように響かせたつもりであったが、胸の内では微かな苛立ちが動いていた。
なぜ、若年の者の小細工が、ここまで空気を変えるのか。
彼は己の力量を誇るでもなく、また軽口を叩くでもない。
ただ静かに、しかし確かに布石を打つ。
それが、じわじわと壁の隙間に沁み込むように広がってゆく。
「侮れぬ」
そう認めるには、まだ早い。
だが、このまま目を逸らしては、いずれ自分たちの方が取り残されるやもしれぬ。
私は視線を落とし、顔色ひとつ変えぬまま、次の議題へと移した。
だが心中では、すでに彼の動きを「注視すべきもの」として刻んでいた。
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[ちょこっと歴史解説]
幕政の場には、年功や経験を重んじる古参老中が多く、若年で老中に就いた阿部正弘は常に「軽んじられる」立場にありました。
しかし彼は、表向き目立たぬ小さな布石から成果を積み重ね、やがて古参すら無視できなくなる存在へと変わっていきます。
この「最初の認識の揺らぎ」が、その後の幕政を大きく動かす第一歩でした。
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