055A. 若き老中(芽)―小さき登用―
倉米の不正を取り上げたことで、私を見る目がわずかに変わった。
大きな声はまだ届かぬが、小さな囁きは確かに実を結びつつある。
その日、評定所の席上で、帳簿の整理を任された書役の名が挙がった。
年若く、これまで陰に隠れていた者。だが彼が差し出した記録は、誰も気づかなかった細部を正確に示していた。
「この者に続けて任せてはどうか」
私は思わず口にしていた。
広間にざわめきが走る。
年長の老中は眉をひそめ、低く言った。
「若殿、登用は軽々しく口にするものではない」
しかし、奉行衆のひとりが声を重ねた。
「確かに、この者の働きは見事。任せて損はあるまい」
議論は短く、結論はあっけなく出た。
――小さき登用が、初めて私の言葉から生まれたのだ。
その後、書役は帳簿を整え、不正の全貌を浮かび上がらせた。
わずかな芽が、確かな力となる。
私はそれを目の当たりにし、胸の奥で呟く。
「芽を守らねば。いずれこれが、未来を支える幹となる」
廊下を歩む足取りは、まだおぼつかない。
だが、壁の向こうで芽吹いた小さな緑が、確かに息づいていることを感じていた。
⸻
[ちょこっと歴史解説]
阿部正弘は老中となって間もない頃から、若手や下僚を積極的に登用した人物として知られます。時に軽んじられることの多かった役人や学者の声を拾い上げ、その働きの場を広げました。川路聖謨や勝麟太郎らも、こうした「小さき登用」の積み重ねによって力を発揮する機会を得ていきます。小さな芽を見逃さない姿勢こそが、正弘の政治の特色といえるでしょう。
番号修正
57=>55




