054A. 若き老中(糸)―結び目―
巻紙は細く、小者の袖の内に隠されていた。
開けば、町方の訴えである。ある勘定所の役人が、倉米を私的に横流ししているらしい。
額は僅かに見えるが、積もれば大きい。
――評定所で口にすべきか。若輩の私が、笑われはせぬか。
迷いながらも、次の会合で私は声を上げた。
「倉の出納に不正の疑いがあると、町方より報せを受けております」
広間に一瞬、冷えた空気が走る。
年長の老中は、唇の端を上げて言った。
「若殿、町人の流言に振り回されては務まらぬぞ」
退けられるか――そう思ったその時、奉行衆のひとりが口を開いた。
「実は、その件につきまして、調べを進めておりました。確かに怪しき出納があり……」
ざわめきが広がる。
小さな囁きが、確かな証となって表に引き出された。
倉米の不正は財政の穴へと繋がり、放置すれば幕府全体を蝕むものとなる。
「小事と思われた声が、大事を救うこともある」
自らの言葉に、私の胸が熱くなる。
会合ののち廊下に立てば、背に集まる視線が変わっていた。
好奇、軽侮、そしてわずかな敬意。
囁きは糸となり、糸は結び目を作る。
それがやがて網となり、政を支えるのだ。
私は確信する。
老中の座に座すとは、大声で押し返すことではない。
小さな声を束ね、結び目に変えること――それこそ、私の役割だ。
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[ちょこっと歴史解説]
幕府の政治といえば大事件や外交が目につきますが、実際には倉米の出納や役所の帳簿など「小さな事務の正しさ」が政を支えていました。阿部正弘は若年ながらも、町奉行・勘定奉行と密に連絡を取り、細部に目を配った老中とされています。後年の改革的な施策も、この「声なき声」に耳を澄ませた姿勢から芽吹いていったと考えられます。
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