053A. 若き老中(声)―ささやき―
評定所の広間に座していても、空気の厚みに押し込められるばかりだった。
老中の座は与えられた。だが、その座に言葉を響かせるには、まだ力が足りぬ。
年長の老中たちは議題を交わし、手慣れた調子で結論へと導く。
私の意見を問う者はいない。沈黙を守れば、それで済む。
――そう思いながらも、机の下で握りしめる拳に力がこもった。
評定所を辞すると、廊下の静けさがむしろ胸に重い。
しかし、そこへ控えていた小者や書役が、ちらちらとこちらを窺っていた。
声を掛ければ、彼らは小さな巻紙を差し出す。
「若様なら、耳を傾けていただけるのでは……」
その囁きは、表の議題とは比べ物にならぬほど些末なことかもしれぬ。
だが、町方の困窮、旗本の窮乏、役所のひずみ。
誰も聞こうとしない声が、そこにはあった。
川路や勝から届く密かな知らせと同じ。
表の大広間では遮られても、裏に満ちる声を拾い集めれば、必ず力となる。
廊下を歩けば、すれ違う者たちの目が交わる。
畏れと期待、その両方を湛えた眼差し。
――壁の向こうへ届くのは、大声ではなく、束ねられた囁きなのだ。
私は心に刻む。
「私にできるのは、まず耳を澄ますことからだ」
灯火に揺れる影のように、静かな決意が胸に広がった。
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[ちょこっと歴史解説]
評定所は、幕府における最高の合議機関であり、老中・若年寄・三奉行らが集まって政務を議する場でした。形式上は公平な議論の場とされていましたが、実際には年長の老中が主導権を握り、若年の者が意見を差し挟む余地は限られていました。若くして老中に就いた阿部正弘も、当初は軽んじられがちであり、むしろ周囲の小役人や下僚から届く小さな声に耳を傾けることで、自らの立場を形づくっていったと伝わります。
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