007KR.似ているような
どこかで見たような目だった。
その男と初めて言葉を交わしたのは、佐久間先生の塾に来た役人の随行としてだった。
名は、川路――川路聖謨。
口数は少なく、視線は静かで、でも一度目が合えば外さない。
武士というより、測量器のような正確さを感じさせる男だった。
なにかが、ひっかかった。
•
会話の端で、こんなことを言った。
「勝殿は、少々……時代の先を行かれすぎているように見えますな」
皮肉ではなかった。
探るような声だった。
普通なら聞き流す。でも俺には、その“探り”が分かる。
まるで――
俺と同じものを、どこかで見てきたような口ぶり。
それからというもの、俺は無意識に、彼の言動を観察し始めた。
ときおり妙に的を射た発言をする。
まだ世に出ていないはずの概念に、すんなりと反応する。
この前、俺がふざけて「蒸気船の普及はまだですかね」と口にした時も、誰も意味が分からなかったのに、
川路だけは、湯呑に口をつけたまま「燃料の確保が難しいでしょうな」と返してきた。
……どういうことだ?
•
まだ確証はない。
でも、俺は知っている。この“違和感”の正体を。
“あの目”を、知っている。
俺が転生してこの世界で最初に感じた、あの感覚――
何もかもが懐かしくて遠くて、それでも前に進まなければならないという、あの孤独。
川路の中にも、それがある気がする。
同じかどうかはわからない。
でも、きっと俺と――「似ている」。
•
焦るな。探るな。
転生者なら、尚更だ。
敵か味方か、まだわからない。
だが、俺は忘れない。
あの目を。
そして、あの返しを。
「勝殿、貴殿は何者ですかな?」
それは、冗談のようでいて、冗談には聞こえなかった。
[ちょこっと歴史解説]
時代背景 蒸気船
■ 日本の技術状況(黒船以前)
•江戸時代の日本では、鎖国政策により、西洋との接触は長崎の出島に限られていました。
•蘭学(オランダ語経由の学問)によって、医学や天文学などはある程度発展していましたが、軍事・造船分野の技術は大きく立ち遅れていました。
•**西洋式大砲(洋式砲術)**の研究は、佐久間象山や高島秋帆らによって始まっていたものの、あくまで理論や模倣レベルで、本格的な実用にはほど遠い状況でした。
■ 蒸気船に関する知識と実践
•ペリーが来航する前、日本では蒸気船そのものを目撃した人はほとんどいませんでした。
•一部の蘭学者や知識人(象山、勝海舟など)が書物を通じてその存在を知っていた程度。
•実際に日本人が蒸気船を「目で見て」「音を聞いて」「煙を上げながら港に迫ってくる」のを体験したのは、まさに黒船が初めてでした。
■ 国産蒸気船の試み(黒船後の話)
•黒船来航後、日本でも急速に国産蒸気船の建造が始まります。
•有名なのが、咸臨丸。1860年には勝海舟が咸臨丸で太平洋横断を果たし、日本の技術がようやく実戦的な段階に入りました。
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■ 象山や勝海舟の見ていた未来
黒船以前から、西洋の技術に注目していた知識人たちはわずかに存在していました。佐久間象山は「日本も西洋の技術を取り入れなければ、時代に取り残される」と強く訴えており、それが後に「開国・富国強兵」の思想へとつながっていきます。
当時の蒸気船は、単なる船ではなく、「未知の力・未来そのもの」だったのです。