幕間『声なき風、町に吹く』
ー名もなき寺子屋の師匠ー
今朝の墨は、濃い。
硯に落とす水が冷えていたせいかもしれない。
「先生、これ、合ってますか」
そう言って差し出された筆習いの紙。
子どもの指はかじかんでいて、線が少し震えていた。
「よく書けたな。『政』の字は難しいが、形はとれている」
寺子屋の一角に、小さな笑顔が咲く。
冬の朝、障子越しの光が、子らの顔をぼんやり照らしていた。
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「先生、政治って、どこでしてるんですか?」
ふいに、別の子が訊いた。
寺子屋には、たまにこういう問いが混じる。
「江戸城のなかでな。偉い人たちが集まって、物ごとを決める」
「ぼくたちにも、関係あるの?」
「……少し、あるな。だけど、わかりにくい形で届く」
例えば、米の値段。
例えば、町の見回りの人数。
例えば、大人たちの顔色。
政は、遠くて、近い。
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その日の午後、裏長屋で小さな噂が立った。
「また誰か、登用されたらしいぞ」
「どこの誰だ?」
「知らん。けど、“若い”らしい」
ふーん、と誰かが言い、すぐに話題は変わった。
でも、師匠の耳には残った。
“若い”という言葉。
(あの阿部って老中、若かったな……)
寺子屋の壁にかけられた古い瓦版の切れ端に、
その名前が載っていたのを思い出した。
遠い話だ。
けれど――遠い風は、いつかこちらにも吹く。
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「お前たち。今日は、少し難しい字をやってみようか」
「なに?」
「“兆し”という字だ」
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子どもたちは、一斉に筆を持つ。
墨のにおいが、かすかに揺れた。
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[ちょこっと歴史解説]
幕末において、政治改革や登用の動きは、すぐには庶民の生活に届きませんでした。
しかし、阿部正弘のように若くして老中となり、異例の人事を行っていたことは、
町方の間でも「耳にする」レベルでは話題になっていた可能性があります。
この幕間では、政の動きが生活の場に「風」として届き始める瞬間を描いています。
誰もがその意味を理解しているわけではない。
けれど、「何かが変わるかもしれない」という予感は、言葉にならぬ形で、じわじわと人々に沁み込んでいったのです。
また、「寺子屋」のような教育の場は、身分にかかわらず町人の子らが学ぶ場所であり、
その中で政治や時代の変化がわずかに触れられることも、庶民の“静かな教養”の一端を担っていました。




