幕間『消えゆく熱、燃えゆく影』
火鉢の炭が、ひとつ、弾けた。
その乾いた音に、水野忠邦は、静かに眼を開いた。
「……寒くなったな」
誰に向けたわけでもない独り言が、梁の奥へ消えていく。
江戸の冬は、骨に染みる。
屋敷に火を入れていても、気を抜けば手がかじかむ。
かつての権勢は、とうに過ぎた。
訪れる者も、めっきり減った。
だが、耳はまだ、遠くの声を拾っている。
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「阿部が、人を動かしはじめたようですな」
あれは誰の言葉だったか。
かつての家臣か、通りすがりの役人か、それとも別の誰かか。
記憶は曖昧だが、その声だけは耳に残っていた。
阿部――
あの若造が、老中になったというのも、少し前のことだった。
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(早いな……いや、早くはないか)
忠邦は背を凭れに預け、天井の梁を見上げた。
老中に就いたあの青年が、いまや人を動かしているという。
かつて、自分のもとで、下の者として仕えていたあの男が。
(あの頃は、何も言わぬやつだった)
それでも、よく見ていたのだろう。
沈黙していた分だけ、吸い込んでいた。
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自分が燃やそうとした火は、大きくならなかった。
薪は足りず、囲炉裏は湿っていた。
煙ばかりが立ち、やがて人は離れ、失脚し、すべてが終わった。
けれど、あの火は、消えてしまったのだろうか。
(……いや、熱は、渡った)
老中職を解かれた夜、そう思った気がする。
誰かが、あの火種を拾っていった。
それが、あの阿部だったのかもしれない。
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忠邦は机の引き出しから、古びた帳面を取り出した。
在職中には、口述し、記録は他人の筆に任せていた。
だが、今は違う。
もう一度、自分の手で、記しておきたいと思った。
火鉢の灯を頼りに、硯に水を落とす。
墨がにじみ、筆が静かに紙を走る。
「これは、敗者の記である」
最初に綴ったのは、その一文だった。
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だが、敗者であることがすべてではない。
熱を渡し、影を背負って終わる者がいてこそ、
次の者が、まっすぐ立てるのだ。
(お前は、燃やし続けられるか)
誰にも届かぬ問いを、忠邦はひとり心のなかで投げかけた。
阿部に。
あの老中に。
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筆を置いたとき、ふたたび火鉢がはぜた。
その音は、小さく、だが確かに力を持っていた。
灯火は、終わったわけではない。
誰かが引き継いだ――それでいい。
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[ちょこっと歴史解説]
水野忠邦は、幕政において「天保の改革」を主導した中心人物です。
改革の方針は急進的で、贅沢禁止令や物価統制など、庶民や商人からの強い反発も招きました。
やがて、改革の成果を出し切れぬまま失脚します。
失脚後の忠邦は、表舞台から去るものの、なお政治の動向には注意を払っていたとされ、
阿部正弘の老中登用も、その耳に届いていた可能性があります。
この幕間では、かつての改革者が老中の動きを遠くから見つめ、
「終わる者」として、次代の政治へ“静かな思い”を託す様子を描いています。
“灯火を繋ぐ”という構図は、本章を締めくくるにふさわしい余韻を残すはずです。
幕間は2話あります。
今日は、もう一話、投稿します。




