048A10. 若き老中(輪)ーつながる声ー
「……この三人を、今後、連絡が取れるようにしておきたい」
書院の静けさの中で、正弘は川路に言った。
それは命令でも、お願いでもなかった。ただ――「意志」だった。
川路は頷いた。
「承知いたしました。役職を介せば、さほど目立たず繋げましょう」
「目立つ必要はない。ただ、声が届けばそれでよい」
正弘は、机の上に並べた三通の書状に目を落とした。
それぞれに記されたのは、異なる分野で選ばれた者たち。
儒、法、実務――
派閥にも属さず、共通点も乏しい。けれどその目には、共通のものがあった。
(未来を見ていた)
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「老中様は、輪を作られるおつもりですか」
川路の言葉に、正弘は少しだけ笑みを浮かべた。
「輪など、まだ早い。ただ……声が散らばらぬように」
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かつて自分が、そうであった。
老中に召される前、昌平坂に通い、学び、観察し、黙して耐えていた時代。
あのとき、どこかに話せる相手がいたなら。
互いの思いを、ほんの少しでも言葉にできたなら。
己が感じていた閉塞も、ほんのわずかに、変わっていたかもしれない。
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「思いを語る場を設けるのではなく、語ってよいのだと、知らせる」
「それは、命じるのとは異なりますね」
「ああ」
正弘は頷いた。
「政に立つ者の声は、しばしば“沈黙”によって始まる。
だからこそ、つながりは、明示ではなく、ささやきで生まれるのだ」
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封をした書状を、ひとつひとつ、重ねる。
その手つきは、静かで、確かだった。
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政治とは、命令によって成るのではない。
意志が連なり、やがて「輪」となって、初めて力を帯びる。
その日、阿部正弘はまだ名もなき輪を――
誰にも見えぬところで、確かに結び始めていた。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️「輪」としての人材登用 —— 阿部正弘の人的ネットワーク
阿部正弘の政治手腕は、単なる人事の妙だけではありません。
彼の強みは、登用した人々の間に“目に見えぬ連携”を生む力にありました。
それは「会議体」でも「命令系統」でもない。
それぞれが、自らの意志で動けるようなつながりを、じわじわと築いていったのです。
川路聖謨・村垣範正・石井宗謙・永井尚志など、後に幕政を担う面々が、
この時期に静かにその輪の中に入っていきました。
本話では、そうした「つながりのはじまり」を、阿部の視点から描いています。
それは目立たぬように、だが確かに時代の構造を変えていく動きでした。




