006KR.気づかれている?
正直に言えば、あの日の授業には出たくなかった。
佐久間象山。
この時代における、数少ない“本物の頭脳”。
最初に彼の塾に潜り込んだ時は、まだ記憶が混濁していた。
俺は誰で、ここはどこで、どうしてこんな場所にいるのか――
とにかく、生き延びるには“知”しかないと直感して、学ぶフリをしていた。
でも最近、記憶がはっきりしてきた。
俺は――高校二年生。
幕末? たぶん1850年前後。
そして今は、勝麟太郎。後に勝海舟と呼ばれる人間の……中身だ。
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「strategic depthとは何か」と聞かれたとき、咄嗟に“知ってること”が口をついて出た。
自衛隊の教本で読んだやつだ。というか、それをかじったYouTuberの解説かもしれない。
言った瞬間に気づいた。――やばい。
象山の視線が変わった。
「何を根拠にそう言う?」
いつもの口調よりも、少しだけ低かった。
「……それが一番、勝ち目がある気がして」
逃げたつもりの言葉が、逆に怪しかったのかもしれない。
あの人は、ただの先生じゃない。
冗談で「未来が見える」なんて言ったら、冗談じゃ済まされない。
だがもう、何度か口を滑らせている。
「電信線」「欧州の中国進出」「制海権」――
いまこの時代の人間にとっては、全部が意味不明なはずの言葉だ。
それなのに、俺は喋ってしまう。
いや、喋らずにいられない。
この時代が、これからどう変わるのか。
自分が知っている未来が、いま目の前に“来てしまう”感覚。
……止められない。
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授業が終わっても、象山は何も言わなかった。
けれど、俺の方を一度だけじっと見た。
たったそれだけで、背中に冷たいものが流れた。
先生は、気づいている。
俺が“普通じゃない”ことに。
[ちょこっと歴史解説]
佐久間象山と私塾
佐久間象山は、幕末の思想家・兵学者として知られるだけでなく、教育者としても多大な影響を残しました。彼は江戸の自宅を塾として開き、若者たちに学問を教えていました。特に、当時としては先進的だった西洋の科学や兵学を取り入れ、「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」という独自の思想を説いたことで知られます。
その塾には、のちに歴史を動かすことになる若者たちが集まりました。たとえば吉田松陰、勝海舟、河合継之助などがその門下に名を連ねています。坂本龍馬も間接的に影響を受けたと言われています。
象山の教育方針は、机上の空論ではなく、「学んだことをどう社会に生かすか」に重点を置いた実学主義。型破りで、時に危険思想とみなされるほどのラディカルさも持ち合わせていましたが、だからこそ彼の塾は、時代の転換点に立つ若者たちの心をつかんだのかもしれません。




