048KR2. 若き老中(動)ー波紋ー
誰が何を言ったのか、もう憶えていない。
ただ――その声が、何かを変えたのだと思う。
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「殿中で耳にしたのだがな、老中様が、若い者を登用したらしいぞ」
勝麟太郎は、箸の動きを止めた。
干した大根の味噌和えの、歯ごたえだけが妙に耳に残る。
「誰を?」
「それが、名前までは聞こえなんだ。ただ、派閥にも属さぬ異例の人事だとか」
語るのは、同じ塾の者か、あるいは道場仲間か。誰だったかはわからない。
けれどその言葉が、彼の中に小さな灯をともしたのは確かだった。
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登用。異例。若い。――老中様。
(……阿部正弘)
たしかに、あの人ならやりかねない。
あの眼差し。昌平坂で一度だけ交わした会話。
言葉ではなく、黙して動くような、鋭く、静かな意志。
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「俺たちには、関係のない話さ」
誰かが吐き捨てるように言った。
その場は、少し笑いが起きて、それで終わった。
けれど勝の心はざわついていた。
関係がない?
(いや、ある。あるに決まってる)
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小石が、池に落ちた。
その波紋は、すぐそばの水面には届かないかもしれない。
だが、確かに動いた。空気が、肌が、それを知っている。
(いま、誰かが声をあげた。だから、動いた)
ならば――自分も。
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夜、その日の終わり。
勝は、一枚の紙を取り出して、筆を握った。
内容は未定。誰に見せるつもりもない。
だが、そこに「言葉」を残すことが必要だった。
それが、まだ名もない、自分の中の「動き」だった。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️ 若者の声、風の予兆 —— 勝麟太郎が見た「登用」
この時代、旗本や御家人の末席にいる若者たちは、基本的には“政”からは遠い場所にいました。
学問所や藩校で学んでいても、幕政に関わる道筋は限られており、登用されること自体が極めて難しいのが実情でした。
だからこそ、阿部正弘の「異例の登用」――すなわち、実力や人物本位による人選は、末端の若者たちにとって衝撃でした。
勝麟太郎(のちの勝海舟)にとっても、この時期の登用の動きは、自分の生き方を見つめ直す契機となったと考えられます。
彼は早くから蘭学や航海術に興味を持ち、独学を続けていましたが、その背中を押すものの一つが「時代が変わり始めている」という空気だったのです。
この話では、その「空気」を若者の感性で捉えた瞬間――
声にはならぬ声が、心の中で「動き」始めた一場面を描いています。




