表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
JK老中、幕末って美味しいいんですか?  作者: AZtoM183
6.若き老中
66/152

048A8. 若き老中(架)ー橋脚ー

雨は、夜明けまでに止んだ。

湿った風が障子の隙間をすり抜けて、白い畳の端をなでていく。

書院にはまだ灯がともっていた。

油の残り香が、消えゆく決意をつなぎとめるように漂っている。


「殿、川路様がお見えです」


そう告げた小姓の声に、正弘は静かに筆を置いた。



書院の机の上には、何通もの書状が伏せられていた。

どれも、誰かを推挙する内容だ。だが、それらはすべて、机の上で止まっていた。


迷いがあった。

老中として動けば、動いた分だけ、波紋が広がる。

評定所という流れの中に、異質な杭を打てば、水面は濁る。


若き老中が誰かを登用すれば、それは「派閥への牽制」と見なされる。

誰を選ぶか以上に、「なぜ今選ぶのか」が問われるのだ。


(……それでも、流れがあるなら、橋を架けねばならぬ)


信を置ける者がいないなら、つなぐしかない。

己の判断で、信を渡せる足場を打ち込むしかない。



川路の袴の裾は、道中で濡れたのか、少しばかり湿っていた。

だが、目は冴えていた。眼鏡越しの視線は、曇りなく真っすぐ。


「お呼びでしょうか、老中様」


「うん。急ぎで来てもらってすまぬ」


「構いませぬ。福山以来、殿のお声とあらば」


その物言いに、思わず笑みがこぼれそうになる。だが、それはほんの一瞬のこと。


正弘は机の書状を一通、そっと取り上げた。


「川路。そなたに一つ、問いたい」


「は」


「いまの評定所に、余が信を置ける者は、何人いると思う」


「……言葉を選ばず申し上げれば、さほど多くはございません」


即答だった。迷いがない。


「ならばどうすればよい?」


「作るしか、ございますまい。――信を置ける者を」


その言葉を聞いて、正弘はようやく、机から立ち上がった。



彼の指がそっと撫でたのは、一通の書状。


まだ白い封に墨がしみこんでいない。だが、名は書かれていた。


「この者を、呼びたいと思う」


川路が頷き、封の名を見た。


彼の目がわずかに見開かれる。


だが、それ以上は何も言わなかった。


正弘は静かに畳の先を見つめる。



(ここに、初めの橋脚を打つ)


それは、体制の岸と、志の岸とをつなぐ橋。

ただの一通の書状が――老中としての最初の意思表示になる。

小さな登用かもしれぬ。だが、この一歩がなければ、道は生まれない。


背筋を伸ばし、封を自らの手で結ぶ。


「頼んだぞ、川路」


「かしこまりました」


雨上がりの空に、光がわずかに差し始めていた。



[ちょこっと歴史解説]


▪️「登用」という名の橋脚 —— 阿部正弘の人事戦略


阿部正弘が老中に就任したとき、まだ二十五歳。

それまでの幕政では例を見ない若さで、当然、周囲の重臣たちは半信半疑。彼にとって最初の課題は、「いかにして信頼できる人材を自らのそばに置くか」でした。


阿部は、派手な改革ではなく、“登用”という形で静かに政を動かしていく方法を選びます。

それはまさに、水の流れの中に橋脚を一本一本打ち込むような、地道だが確かな構築でした。


初期に登用された人物として注目されるのが、

•川路聖謨(この時点ではすでに仕えていたが、以後重用)、

•石井宗謙(後に重要な役割を担う儒者)、

•村垣範正(のちに諸外国との交渉にも関わる)


など、後の幕末の布石となる人材たちです。


阿部の人事の特徴は、出自にとらわれず、有能な者を使うこと。

この姿勢が後に「安政の改革」につながり、幕府の延命策として大きな影響を残しました。


本話「架」は、そうした人事の“最初の杭”が打ち込まれた瞬間を象徴的に描いています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ