048A6. 若き老中(白)ー書状ー
白紙の上に筆を落とせずにいる。
硯の墨はすでに乾きかけていた。
評定所では、誰も反対しなかった。
誰も賛成もしなかった。
ただ、無風のまま議題は流れ、時間だけが過ぎた。
あの沈黙は、決して中立などではなかった。
あれは、明確な「拒絶」だった。
――動くな。
――お前はまだ若い。
――老中とは、座して口をつぐむ者のこと。
「ふざけるな……!」
唇が震えていた。
思わず立ち上がり、障子を開け放つ。
夜の空気が肩口を撫でると、怒りと迷いが交じった熱がようやく鎮まってきた。
机の上には、一通の書状。
川路聖謨からの報告だった。
異国の影、民のざわめき、商人の不満、農民の疲弊。
言葉は冷静だ。だが、その筆の奥には明確な“火”があった。
正弘は、その書状の余白に指を置いた。
この火に応えずして、老中を名乗ることなどできるのか。
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再び座し、筆を取る。
今度は、躊躇わなかった。
「あなたの報告を拝見しました。
その一文一文に、私の血が呼応したのです」
この書状は命令ではない。
しかし、ただの返礼でもない。
これは、志の接触だ。炎の触れ合いだ。
「我らは、政を守るためにここにいるのではない。
声なき者の叫びを拾い、拾った責を果たすためにこそ、座しているのです」
そして、書き添える。
「今はまだ、動かすことはできぬ。
だが、必ず時が来る。その時、あなたのような者が必要だ。
私は、忘れません」
筆先が、書面の端で止まった。
その瞬間、書状に刻まれたのは宣言だった。
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白紙が白紙でなくなる。
意志を通した言葉が、それを「書状」に変えた。
それはまだ、誰の目にも留まらない。
だがこの夜、阿部正弘は確かに一歩を踏み出した。
老中としてではない。
ひとりの人間として、“動く者”になるために。
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◆ちょこっと歴史解説
幕政の中で「動く」ということ
江戸幕府中期以降、「変化」は常に嫌われた。
多くの老中たちは、むしろ“何もしないこと”を賢明とし、
表立った改革を避ける傾向が強かった。
だが、阿部正弘は老中として例外的に**“動こうとした”存在**である。
彼の人材登用、異国対応、教育政策などは、すべて「火を抱えながら前に進む」姿勢の現れだった。
この回で描かれた「書状」は、
その動きの最初の“熱”であり、静かなる宣戦布告だったのかもしれない。




