048A4. 若き老中(空)ー沈黙ー
雨が降る。
屋敷の障子を打つ音が、鼓のように細かく、途切れなく響く。
阿部正弘は、その音を聞きながら、書をひとつ閉じた。
今日も、何も決まらなかった。
提案は、誰にも否定されない。
だが、誰も乗ってはこない。返される言葉は、丁寧な先延ばしばかり。
「よく考えてみましょう」
「その件は、次回に改めて」
「現場の状況も確認しないとな」
それは、丁寧に包装された沈黙だった。
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正弘は立ち上がり、灯の消えた隣の間へ歩を進めた。
ここは、かつて父・正寧が書を広げていた一室。
壁際の棚には今も、彼が好んだ記録帳が並んでいる。
一冊を手に取り、そっとめくった。
日付、天気、気温、訪問者――
そして、短くまとめられた「所感」の文字。
「動かざる者、説得すべからず」
「口を閉ざす者に、声は届かぬ」
「されど、待つだけでは政にならず」
父は、知っていたのだ。この空気を。
否、耐えてきたのだ。
そう思うと、静かに自分の胸にも火が灯る――ような気がして、すぐに消えた。
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正弘は筆を取り、余白に小さく書き加えた。
「説得されることを拒む者に、正しさは届かない」
「正しさの数は、必ずしも力に比例せず」
雨音はまだ止まない。
だが、その音すら、何かを語っているような気がしてならなかった。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️老中になっても動けない――幕政の“空気”
阿部正弘が老中に就任した弘化2年(1845年)、幕府の中枢では水野忠邦の失脚による“反改革”の空気が強く残っていました。
水野の急進的な「天保の改革」が民衆・大名・商人の広い層から反発を受けた結果、幕閣の多くは「これ以上の変化は望まぬ」という沈黙と保守に傾いていたのです。
そんな中に、20代の若さで老中に加わった阿部正弘は、いかに正論を述べても、即座に動かせるような立場にはありませんでした。
合議制・年功・格式・空気――それらは、表立って反論されることはなくとも、**何も動かさせない“目に見えない壁”**となって彼の前に立ちはだかりました。
この回で描かれたのは、まさにそうした“何も否定されないが、何も通らない”状態の中で、阿部正弘が静かに感じ取った「政の重さ」と「空気の濃さ」です。
老中になれば動ける――そう思われがちですが、実際にはその先にも、“空”のように掴めない抵抗が待っていたのです。




