048M. 若き老中(影)ー波紋の中で
屋敷の庭先に、蝉の声がこだましていた。
縁側に腰を下ろした水野忠邦は、茶碗を手にしていたが、口はつけていなかった。じっと、庭に伸びた影を見つめている。
「……備中守が、海防の件で発言を?」
脇に控える側用人が、静かにうなずく。
「はい。諸藩の備えについて、実際の動きを把握したいと――老中会議の場にて、自ら申し出たと伺っております」
「ふむ」
茶碗を持つ手が、わずかに揺れた。光を受けて茶の表面に輪が広がる。
「ようやく、声を上げたか」
口元に浮かんだのは、笑みともため息ともつかぬ、微妙な表情。
正弘が老中に就任したと聞いたとき、水野は「都合のよい者」として名を挙げた記憶がある。年若く、前歴も短い。意志を持たぬ駒であれば、盤上に置くには好都合――そんな思惑が、なかったといえば嘘になる。
「して、その場の空気は?」
「さほど動揺はなかったようですが……やや、驚いた者もいたとのこと。何人かの老中が、うなずいたとも」
水野は目を閉じ、短く鼻を鳴らした。
「うなずいた、か。……年寄どもは、若い声に飢えていたのかもしれんな。あるいは、言葉の裏を読む眼が鈍ったか」
一拍置いて、茶を口にした。
苦味が、舌の上にじんわりと広がる。
「……まだ、声を上げたにすぎぬ。風のようなものだ。どこに向かうかは、見定めねばなるまい」
側用人がうなずく。
「ですが、もし方向を誤れば――」
「その時は、その時だ」
静かな声の中に、鋭さが宿る。
「所詮、若造。学びがあるだけの、政の素人よ。まっすぐすぎれば、曲げればよい。曲がりすぎたなら、正せばよい」
言葉とは裏腹に、水野はふと、空を見上げた。
かつて自分が座していた老中の席。
その空気、その重さ。
それを、あの若者はどれほど感じ取っているのだろうか。
「……さて、どう動くか。政は盤だ。打たぬ手は、詰まぬ」
縁側に、風が吹き抜けた。
その風が、果たして誰の背を押すのか――水野は、ただ、じっと待つことにした。
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[ちょこっと歴史解説]
■ 老中の「裏方」水野忠邦と、影響の残響
水野忠邦は、天保の改革を主導した老中として知られていますが、失脚後もなお、幕府内で無視できぬ存在でした。
彼の影響は、政策の遺産のみならず、「誰を推すか」「誰が水野に近いか」といった形で、幕府の人事や人間関係に色濃く残りました。
特に、若年寄から老中へと昇進した阿部正弘は、その出自と年齢から「水野の傀儡」と見られる向きもあり、本人の意図とは無関係なところで政治的立場を揺さぶられていました。
失脚してもなお波紋を広げ続ける――それが水野という人物の、もう一つの姿だったのかもしれません。
話数を同じにしたので、ちょっとまとめて、投稿します。この後、10分おきに予約しています。




