幕間「静かなる灯」
書院の障子の向こうから、かすかな筆の音が聞こえる。
直弼は、筆を持ったままその音に耳を澄ませた。
己のではない。
別の部屋、別の灯火のもとで、誰かが静かに書いている気がした。
(……誰だったか)
そんな気配を、昔にも感じたことがある。
旅の途中で出会った読書家か、それとも琵琶湖のほとりで話しかけてきた商人か。
記憶はあやふやだが、灯火の匂いだけは、妙に鮮やかだった。
「直弼様、灯をお持ちしました」
部屋に入ってきた下男が、そっと行灯を置く。
火が揺れて、影が生まれる。
その揺らぎの中で、ふと、ある言葉がよみがえった。
「言葉には、命がありますよ」
誰の声かは思い出せない。
けれど、その語尾の調子が、どこか浮いていた。
まるで、今の世の言い回しではないような――
(まさか、また……)
直弼は小さく首を振った。
そんなはずはない。
他人の口調や癖に、なぜか既視感を抱くのは、昔からの癖だ。
筆を取り、書きかけの随筆に一行を加える。
「火のような言葉、雪のような言葉、そして――灯のような言葉もある」
誰にも届かなくてよい。
けれど、この灯が誰かの夜を照らすことがあるのなら、それだけでいい。
ふ、と風が入り、障子がわずかに揺れた。
その向こうに誰かがいた気がしたが、振り返っても誰もいなかった。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️「部屋住み」時代の井伊直弼と書院での日々
井伊直弼は、幕末の大老として著名ですが、若年期は「部屋住み」と呼ばれる家督を継がぬままの身分で、長らく政治の表舞台から遠ざかっていました。
その間、彼は江戸上屋敷の一角にある書院で静かな生活を送り、茶の湯や和歌、書、仏典などの研鑽に励みました。
とりわけ著述活動には熱心で、『柳営秘鑑』『日々是好日』など、複数の随筆や備忘録がこの時期に書かれたとされます。
この「静かなる灯」のような日々が、のちの大政を担う重さと、彼の内面の均衡を育んだとも言えるでしょう。




