044A. 火の気配
蝦夷地の風が、江戸の空にも届いてきたようだった。
正弘は、評定所で交わされた密かな報告を、静かに反芻していた。
「北方沿岸に、再び異国船の姿あり――」
淡々とした口調で報告したのは、勘定奉行所付きの目付役人。
場所は択捉。帆の形からロシア船と思われるが、寄港も通商要求もせず、ただ遠巻きに沿岸をうかがい、また去ったという。
「前回は、南下した船が琉球方面へと現れたとも聞いております」
――北の影。
――南の風。
幕府の周縁が、ゆっくりときしみ始めていた。
「備中守、いかが思われますかな?」
評定所を出た後、並んで歩いていた一人の年長の老中が問いかけてきた。
肩にかけた直垂の袖を指で撫でながら、ことさら穏やかな顔をしている。
「脅威の程度は、いまだ量りかねますが……」
「ふむ。私もそう思うておる。大仰に騒ぎ立てて、諸国を不安がらせてもな」
「……ですが、備えだけは、騒がずとも始めておくべきかと」
正弘の言葉に、老中はふと足を止めた。
「阿部様」
声がやや低くなる。
「老中職は――見えるものと、見えぬものの両方を、選び取らねばならぬのですぞ」
「……心得ております」
そう答えた正弘の胸には、わずかに鉛のような重みが沈んでいた。
今の言葉に、忠告の色はなかった。
しかし、その裏にあるのは、「若輩が見誤るなよ」という無言の圧であった。
江戸に戻ると、空には夕陽がかかっていた。
書院に戻り、ひと息ついたとき――父・正寧の姿が襖の向こうにあった。
「蝦夷か。……お前が考えるほど、幕府は機敏ではないぞ」
「父上も、そうお考えになりますか」
正弘は思わず苦笑する。
正寧は、軽く頷いたあと、こう言った。
「だが、ゆっくりと動くものほど、ひとたび動き出せば止まらぬ。ならば、その舵を取る覚悟を――」
正弘は黙って、炭火の揺らぎを見つめた。
何も起きぬかもしれない。
だが、もうすでに、空気は変わり始めている。
気配は――遠き火の如く。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️北方情勢とロシア船の接触
19世紀初頭から中頃にかけて、ロシア帝国は極東への進出を強めており、樺太や千島列島周辺の調査・進出が活発でした。1804年にはロシア使節レザノフが長崎に来航し通商を求めましたが、交渉は不調に終わっています。
1830年代〜40年代にかけても、ロシア船は蝦夷地近辺に現れ、幕府は脅威を感じながらも明確な対応に出られず、情報収集と沿岸の防備に留まることが多かったのです。
阿部正弘が若年寄として務めていたこの時期(1840年代初頭)、実際に択捉島や宗谷方面でロシア船の目撃例があり、「北の影」は静かに迫っていました。




