042KT. 遠方よりの使者
勘定所の書庫に、ひときわ厚手の包みが届いた。
長崎出島を経由し、上方廻しで江戸に送られてきた文書――その封を切る前から、川路は薄く息をのんでいた。
朱漆の木箱に納められた羊皮紙、添えられたオランダ語の訳文。
(これが……)
数年前、漂着した異国船に対応した奉行の名が脳裏をよぎる。
その延長線上にあるような、だが、明らかに“質の違う”書状。
オランダ国王ウィレム二世――日本への親書。
開国を求める内容だった。
直接的な強要ではない。
だがその文言の柔らかさは、むしろ「断る選択肢などない」と言外に語っている。
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「この件は……」
川路は帳面を閉じ、溜め息をひとつだけ漏らした。
“返答不要”――それが、老中首座からの方針だった。
出島奉行には「礼を持って静かに収めよ」とだけ伝えよ、と。
(これが、政のやり方か……)
書状の内容そのものよりも、それに対する**「沈黙こそが返答である」**という姿勢に、川路は衝撃を覚えた。
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その翌日、若年寄・阿部正弘から非公式の使いがあった。
「オランダ国書、御目通し願いたいと」
会釈だけで言葉少なな使者だったが、川路にはそれで十分だった。
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面会は短かった。
「写しを、拝見しました」
「いかがでしたか」
阿部は、紙の上の訳文をじっと見つめていた。
「……外交というのは、返事をしないことで成されるものなのでしょうか」
唐突な問いだった。だが、川路は答えを持たなかった。
「今の政の形では、そうなるようでございます」
「ならば、私は形を学ばねばなりません」
その一言に、川路は心中で眉を動かした。
“私は”ときたか――まるで自分のことではないような言い回し。
しかも、その次の言葉は、さらに妙だった。
「……ファーストコンタクトというには、まだ静かすぎますな」
「……今のは?」
「……昔、読んだ書き物の比喩です。お気になさらず」
阿部は、それ以上語らず、ただ丁寧に頭を下げて去っていった。
川路は机の上の文書を見下ろしながら、心中で呟いた。
(この若殿――どこか、こちらと“似ている”)
思い出せぬ既視感。
ふとした言葉の選び方に、遠い響きを感じていた。
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夜。帳面を開き、川路は一行を記した。
《政は、応じぬことによって語られる。だが、記録は語り続ける》
その文末に、彼は小さく付け加えた。
《若年寄、何かを見ている目をしていた》
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[ちょこっと歴史解説]
▪️オランダ国書という“返答なき問い”
弘化元年(1844年)、オランダ国王ウィレム二世は、江戸幕府に宛てて一通の親書を送った。内容は「鎖国政策を改め、通商を開いてはどうか」という穏やかな勧告であった。
幕府はこれを受理し、長崎奉行を通じて対応したが、正式な返答はしなかった。
これが、いわゆる「黙殺」という形での対外政策の始まりである。
当時の幕政では、「返答をしない」ということ自体が一つの外交戦略とされていた。明確な言葉を持たないことにより、未来の選択肢を残す。
だが、そうした曖昧な対応が、のちのペリー来航の際に「何も準備していなかった」とも見られる結果につながる。
政は語らずとも、文書と記録はすべてを物語っている。
この国が「開かれざる国」でい続けようとしたとき、すでに扉の前には、複数の“使者”が訪れていたのである。




