041A. 声なき声
「……では、町触の修正案は、御三方の方で改めて詰めていただくとして」
老中の一人がそう言って場を収めると、評定所の空気はふっと緩んだ。
正弘は、沈黙のまま筆を置いた。若年寄として会議に列席してから数ヶ月。いまだ発言は少ない。
だが今日――妙なことが、ひとつ。
三たび、意見を求められたのだ。
「阿部殿、そなたの考えは?」
そう聞かれたとき、他の席から視線が流れた。
拒絶でも期待でもない。ただ、**「測っている」**ような目だった。
正弘は即答せず、少しだけ考えてから、無難な見解を述べた。
会議の場はそれで流れた。
だが――(なぜ、私なのだ?)という疑念だけが、心に残った。
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「最近、よく声をかけられますね」
登城帰り、家臣の一人がぽつりと言った。
「御意見、御参考までにと、何度か問われたのを拝見しております」
「……そうか」
「誉れにございますな」
正弘は笑わなかった。ただ頷いた。
(問われる声がある。だが、命じる声ではない)
誰も彼を選んだとは言わない。
だが、何かが“備えられている”気配がある。まるで、誰かがまだ鳴らされぬ太鼓を見ているような。
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夜。屋敷の書院で、父・正寧と向かい合う。
「何か……あるのかもしれません」
「何が?」
「……水面の下で、何かが動いている気がするのです」
正寧は茶を口に運び、静かに目を伏せた。
「お前に問うてきた者たち。それは評価ではない」
「では?」
「試しだ」
「……」
「まだ答えるな。問いに問われて、己を問え。それが政に生きるということだ」
蝋燭の炎が、ふっと揺れた。
正弘はその揺れの中に、言葉にならぬ声の気配を感じた。
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夜更け、帳面に一行記す。
《声に出ぬ声を、聞くべきとき》
筆先が紙をすべった。
まもなく春になる。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️老中は、どうやって選ばれるのか?
江戸幕府において、「老中」は政務の中枢を担う重職であり、名実ともに幕政の最高責任者であった。だがその登用方法は、現代のように公募もなく、定まった選出基準も存在しない。
では、どうやって選ばれていたのか――。
老中の人事は、最終的には将軍の任命によって決まる。だが、実際には**「見られること」「試されること」「声には出されない評価」**の積み重ねによって、候補者は絞られていく。
たとえば、若年寄や側用人といった中堅の役職にある者が、日々の会議でどのように発言するか。意見が的確か、言葉に重みがあるか、年長者の信を得られるか――そうした日常的な姿勢や振る舞いが、無言のうちに“評価”として蓄積される。
また、老中職は複数人制であるため、**「今の老中たちとどう補完しあえるか」**という相性や政治的バランスも考慮される。派閥や出自の問題も絡み、単に能力だけでは昇進できないことも多かった。
特筆すべきは、本人に「候補である」と知らされることは基本的にないという点だ。
ある日突然、将軍からの命により、辞令が下される。
そのとき、断れる者はほとんどいない。なぜなら、それは個人の栄誉というより、家と旗本社会全体の「義務」として課せられるものだったからだ。
「老中にふさわしい人物」とは、常に、声なき声の中で選ばれていたのである。




