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038A. 張られた眼

背筋を伸ばして座るだけで、こんなにも疲れるものなのか――。

若年寄としての席に着いてから、阿部正弘は、終始、奇妙な緊張の中にいた。

議題は既に決まっており、文書も読み込んでいた。内容に不明はない。言うべきことも、頭の中では整理されている。


それでも、口を開くには、何かが必要だった。

会議の席である西の丸の一室。若年寄の列の中にあって、正弘は最も年若く、最も新しい存在だった。

他の若年寄たちは、淡々とした口調で報告を交わす。事務的で、静かで、そして――整いすぎていた。 


(これが、政か)


声を出せば波紋が立つ。動けば、視線が寄る。


誰も露骨には見てこない。だが、正弘は感じていた。張り詰めた糸のような、無数の視線が、己の背中にまとわりついていることを。


(あの目だ)


記憶の底に、かすかに残る。父が若年寄を務めていた頃――ある日ふと見上げた御用部屋の廊下の奥から、ひとつの目がこちらを見ていた。


それは、誰の目かはわからなかった。が、それがただの人の目ではなかったことは、なぜか幼心にもわかった。


(見て、いる。測って、いる)


目に見えない秤の上に、己が乗せられている感覚。

その日から、正弘は「視られていること」を意識するようになった。


「……阿部殿」横の席から声がかかる。


「先ほどの件、御意見などあれば」


老練な若年寄が、柔らかな口調で問いかけてきた。

試されている、とは思わなかった。だが、それがただの問いでもないことも、感じ取れた。


「は、御指摘のとおり、江戸市中の炭価に関しては――」


言葉が、喉を通る。空気がわずかに動く。

議事が再開するその最中、誰かの視線が、一瞬だけ逸れた。


その視線の持ち主が誰であれ、正弘はその「眼」を忘れることはなかった。

その夜、筆を執った彼は、日誌の片隅にこう書き記した。

 

――「政は、眼の中で試される」



[ちょこっと歴史解説]


▪️江戸幕府の政務機構の基本構造


江戸幕府の政治運営は、将軍を頂点とし、その下に複数の役職・組織が分担して機能していました。

中でも重要なのが、**「老中」「若年寄」「評定所」**の三つです。



1. 老中ろうじゅう=幕府の中枢


▪️役割

•幕府の最高政務機関(実質的な内閣に相当)

•将軍の信任を受けて、幕政全般を統括

•外交・大名統制・江戸市政・武家官僚の任免・法令の布告 など

•重要な政務は「将軍の名で老中が裁可」する形式


▪️人数と構成

•通常は4〜5名程度の合議制

•うち1人が「老中首座(筆頭老中)」としてまとめ役を担う

→ 天保期では水野忠邦が該当


▪️老中の下部機構

•勘定奉行(財政)

•寺社奉行(宗教・建築)

•町奉行(江戸市中の警察・裁判)

•**大目付(幕臣監察)**など



2. 若年寄わかどしより=老中を補佐する中枢職


▪️役割

•老中の補佐役。老中が主に大名や政治全般を管轄するのに対し、若年寄は主に以下を担当:

•旗本・御家人(直属の武士)支配

•城内の儀式・警備・作法

•一部評定所や幕閣の調整なども関与

•若年寄の名のとおり「比較的若く登用される」「次世代の老中候補」という意味も含む


▪️人数

•常時2〜3人程度が任命され、当番制で業務分担(輪番)


▪️阿部正弘の場合

•弘化元年(1844年)、21歳で若年寄に抜擢

→ 異例の若さであり、将来の老中候補として注目された



3. 評定所ひょうじょうしょ=司法・法務の合議体


▪️役割

•司法・裁判の最高機関(現代で言えば最高裁に近い)

•旗本・大名の裁判、複雑な土地争い、刑罰の決定などを扱う

•重大事件・越訴(上訴)などを複数の奉行・役人が合議制で判断


▪️構成

•評定所与力(事務官)に支えられた奉行・若年寄などの合議体制

•しばしば町奉行や寺社奉行も参加する

•決定事項は老中を通じて将軍へ報告


三者の関係まとめ


項目     役割         比喩的説明        備考

老中     政治の最高執行部   内閣/大臣        実質的な行政権者

若年寄    幕政の補佐・旗本支配 官房副長官        次世代リーダー育成機能も

評定所    裁判・法務の合議機関 最高裁判所        重大事件の最終判断を担う




幕末期の特徴的ポイント

•幕府の政策力は徐々に低下しており、老中の権威と現場の乖離が問題に

•若年寄や下級役人(川路など)が**「記録」や「下からの声」に敏感になり始める**

•評定所でも形式主義化が進み、現実とのギャップが広がる


阿部正弘のような若い幕臣は、こうした制度の限界の中で、“政の本質”を問い直す立場にあったともいえます。

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