037KR. 火薬と雨音と
「母上、針金……足りねえよ、これじゃ」
「……ちょっとなら、お向かいに借りてこようかねぇ」
雨の音が屋根を叩く。勝家の台所は狭く、湿気と焦げた炭の匂いが混じっていた。
母は古くなった提灯の骨組みに紙を張り直しながら、肩をすくめて笑った。
その手つきの慣れ具合が、かえって胸に刺さる。
「……いいよ、俺が行ってくる」
足袋のまま戸を開けると、細い路地に雨が煙っていた。
水たまりに落ちた雫が、ぼたん、と音を立てる。
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通りの先から、大工の親方が戻ってくる。
すれ違いざま、いつものように声をかけられた。
「おう麟坊、また砲術か? 最近、寺子屋よりそっちのほうが顔出してるんじゃねえの」
「……好きなんで」
「好き、ねぇ。火薬に夢中になると、碌なことにならんぞ。……ま、わしらの世代より、先のことはお前らが考えるんだな」
肩をすくめて去っていく背中に、勝は頭を下げた。
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戻った部屋には、象山から借りた本が積まれていた。
『新製炮術略解』『西洋兵書概見』――どれも、蘭語の抜粋と図解を写したもの。
油紙にくるまれていたにもかかわらず、表紙の角が湿気で波打っていた。
(……この国は、何を守るつもりでいるんだ?)
物価は上がる一方、薪の質も悪くなった。
長屋の子らは熱病で寝込み、母は米の質をごまかして粥にしている。
そんな中で、城の連中は、何をしている?
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夜。雨はなおも降り続いていた。
紙を捲る手を止め、勝は机の上の油灯を見つめた。
「……このままじゃ、何も変わらねえ」
呟いた言葉に、誰も返事はしない。
ただ、火薬の匂いが微かに残る手元に、
次第に、覚悟のようなものが染み込んでいくのを感じていた。
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[ちょこっと歴史解説]
▪️砲術と蘭学、そして“見えない外圧”
1840年代、江戸の町では庶民生活が困窮しつつあった。天保の改革後の余波、物価の高騰、生活インフラの疲弊……。その一方で、異国船の来航や、蘭書の密かな流通により、西洋の技術や思想が「知る者」の間にだけ伝わり始めていた。
勝麟太郎は、まだ幕臣としての役職を持たぬ無位無官の若者にすぎなかったが、砲術と蘭学に魅せられ、将来の脅威を感覚的に捉えていた。
とりわけ、江川英龍や佐久間象山といった先進的な学者との交流を通じて、彼は次第に「何かが来る」という予感を確信へと変えていく。
そして、**この国を守るには、変わらねばならない――**その思いが、彼を動かし始めるのは、まさにこの頃だった。




