表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/151

035A. 沈みゆく影

その日、西の丸の御用部屋では、朝から空気が重たかった。


「……品川の再開発に関して、町触はすでに通達済み。次は、蔵屋敷筋への調査ですな」


「いや、それよりも、江戸市中の諸物価の上昇がまずい。米はもとより、薪炭にいたるまで――」


老中たちの声が交差する。若年寄も数名列席しているが、議題の中心に立っているのは、ひときわ強い口調で進言する、ひとりの男だった。


水野忠邦。


天保の改革を主導し、幕府の制度そのものに手を加えてきた、老中首座。

その声には威圧があり、姿勢には自信がある。誰も反論しない。いや、できない空気があった。

阿部正弘は、その姿を見つめながら思った。


(確かに、語気も明確。論理も通っている……が)


なぜだろう。場に、どこか妙な沈黙が混ざるのを、彼の敏感な耳が捉えた。

誰も顔をしかめたりはしない。頷いている者すらいる。だが、言葉の流れと、空気の流れが噛み合っていない。


(……聞き流されている?)


いや、違う。

受け取られてはいる。だが、信じられていない。

会議が終わりに近づいた頃、水野が一瞬だけ言葉を切った。

その隙に、老中の一人――阿部家とは因縁浅からぬ酒井雅楽頭が、半ば独り言のように漏らした。


「改革とは、風のように吹き抜けていくものですな」


水野はそれに返さなかった。ただ、次の議題へ移っただけだった。

その帰り道。

正弘は、同行する勘定組頭に声をかけた。


「今日の会議、皆さま、よくお話をお聞きでしたね」


「は。……お若殿、失礼ながら」


「なんだ?」


「……耳で聞いても、腹に落ちぬことというのが、世にはございます」


正弘は歩みを止めた。


「それは、水野様の御意見に、ということか?」


「いえ……水野様は、確かに立派であられます。ですが、改革の風があまりに強ければ、ついていけぬ者も多うございましょう」


それ以上、言葉はなかった。だが、言葉は十分だった。


その夜。


正弘は、書棚の裏から父の古い記録帳を引き出した。


「忠邦殿――水野殿」


その名が記されている箇所をなぞりながら、小さく息を吐いた。


「いつか、自分も……」


その言葉の続きは、蝋燭の灯と共に、静かに夜へと沈んでいった。




[ちょこっと歴史解説]


天保の改革の余波と水野忠邦の「影」


天保の改革(1841年〜1843年)を主導した老中・水野忠邦は、幕政において強烈な指導力を持っていた。株仲間の解散、人返し令、物価統制、贅沢禁止令……。その政策は徹底的かつ迅速であったが、同時に多くの反発も招いた。


改革の成果は限定的であり、都市部では混乱が残り、幕閣内にも疲弊と不信が広がり始めていた。だが、水野の威光はいまだ強く、表立って反対する者はいない。


この頃の幕府には、「口に出せない不満」と「期待の空白」が同時に広がっていた。


そんな空気の中に投じられたのが、若き若年寄・阿部正弘である。


彼はまだ老中ではない。だが、この日――水野忠邦の「影」を目にしたことで、政の潮目を、確かに感じ始めていた

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ