003KT.その御方、まことに不思議?なり
あの方がご当主の子息、川路様だと初めて聞いたとき、正直、目を疑うた。
あまりに、あまりに──目が違う。
申し遅れました。拙者、川路家に仕える小姓、十四の新米にございます。今は亡き父の遺志を継ぎ、奉公に上がりました。
あの方と初めて言葉を交わしたのは、冬明けの朝。障子を開け、朝餉の準備をしておったときのこと。
「おはよう。……えっと、君は、僕の……いや、違う。そっか、小姓……か」
その時、ふとした違和感が走りました。
言葉が、少し変なのです。音の調子、間の取り方、それに何より──
目つきが、大人だった。
十と少しの少年とは思えぬ眼差し。世を斜めに見るような、けれどすべてを諦めてはいないような、妙な熱を湛えておいででした。
ご自身の部屋で、帳面を読み漁る日々。算術の問題を解きながら、「ベクトルがどうとか」「連立方程式の応用が」とか、拙者には一言もわからぬ呟きばかり。
文も読まれますが、時折、毛筆の練習帳に異国の文字のような謎の文字を書きつけておられました。
そして何より──
「この国は、もう、そろそろ外を見なきゃいけないと思うんだ。鎖国のままじゃ、取り残される」
そんなことを、誰にともなく口にされるのです。
異国の話を、まるで旅から帰った者のように語るその口調に、思わず背筋が寒くなったこともあります。
侍の家に生まれながら、刀を好まず、帳面と書物に親しむ。その様も、変わり者と噂されております。
けれど、拙者は知っております。
あのお方は、きっと──どこか違う場所から、風に乗ってこの世に来られたのだと。
ある夜、寝間の戸の隙間から、彼が独り言をつぶやくのを耳にしました。
「もし、ここで俺がこの人生をちゃんとやり直せたら……最後は違う道も、選べるかな」
“やり直す”──その言葉の意味は、拙者には計り知れません。
ただ、あの川路様は、何かを背負っておられる。そう確かに感じた、第三の月の夜でございました。
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解説:川路聖謨(1801〜1868)
川路聖謨は、江戸幕府の官僚であり、外交や財政に長けた理知の人。実在の人物でありながら、現代的な思考の持ち主とも評される。ペリー来航時の対応や、洋学の導入にも積極的だった。